賤ヶ岳の戦いの秀吉本陣・田上山砦。 その2 <南郭・主郭>
「その1」のつづきです。
上宮跡から少し登ると、「南堀切」と書かれた立て札が目に入ります。
どうやら、このあたりから田上山砦の縄張りが始まっているようです。

南堀切です。

左側の高い切岸を見ると、大きな堀切だったことがわかります。
往時は堀切ももっと深かったのでしょう。

堀切の横から北へ向かいます。

切岸の上から堀切を見下ろします。
高い。

先へ進みましょう。

削平地が段曲輪のように何段も連なっています。

「南郭」と書かれた立て札があります。
登ってみましょう。

南郭です。

広い!!

南郭に設置されていた縄張り図です。
周囲を土塁で囲われています。

土塁跡です。
往時はもっと高かったのでしょう。

北側には、主郭切岸が見えます。

主郭への虎口跡。

主郭です。

かなりの広さです。

織田信長亡きあと、織田家の継嗣問題と領地再分配で決裂した羽柴秀吉と柴田勝家でしたが、その後も両者の対立は深まっていき、そして天正10年12月2日(1582年12月26日)、ついに秀吉が戦端を開き、清洲会議で勝家に譲った長浜城を攻略。
さらに12月20日には岐阜城の織田信孝を降伏させます。
その間、越前にいた勝家は雪に阻まれ身動きが取れずにいましたが、翌天正11年(1583年)3月、雪に苦しみながらもようやく近江へと進軍し、余呉湖の北の柳ヶ瀬まで軍を進め、内中尾山に本陣(玄蕃尾城)を築き、行市山から林谷山への尾根に砦を築きました。
一方の秀吉は余呉湖を囲む形に砦を配置し、ここ田上山に附城(陣城)を築いて本陣を布きました。

兵力は柴田軍が3万、羽柴軍が5万と伝わりますが、そのうち1万5千がここ田上山砦に詰めていたといいます。
規模がでかいはずです。

南郭にもあった縄張り図です。
説明書きを読むと、この城を築いたのは秀吉の弟の羽柴秀長だったようです。

主郭も、南郭と同様に周囲を土塁で囲っています。

見事に土塁の遺構が残っていますね。

「主郭」と書かれた木札と、なぜか木の椅子が置いていました。

さて、南郭、主郭を攻略しましたが、縄張り図によると、まだ北郭と西郭があります。
「その3」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-02-03 22:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)