鎌倉殿の13人 第5話「兄との約束」 ~山木館襲撃・石橋山の戦い~
治承4年(1180年)8月17日に挙兵した源頼朝の最初の標的となったのは、伊豆の目代・山木兼隆とその後見の堤信遠でした。出陣は深夜。『吾妻鏡』によると、軍勢は二手に分かれ、北条一族は山木館へ、佐々木定綱、経高兄弟らが堤館へ向かいます。白昼のごとき月明かりが照らすなか、佐々木経高が屋敷に向けて矢を放ちました。「是源家征平氏最前一箭也(これこそ、源氏が放った平氏討伐の最初の一矢だった)」と、『吾妻鏡』は劇的に伝えます。その後、激戦のすえ佐々木兄弟の軍勢が堤信遠を討ち取りましたが、北条一族が攻撃した山木館では、警備が手薄だったにも関わらず手こずっていたようで、北条の館の縁側から山木館の方角を見ていた頼朝は、なかなか火の手が上がらないことに業を煮やし、自身の護衛として詰めていた加藤景廉らに加勢に向かうよう命じました。やがて、堤信遠を討ち取った佐々木兄弟も山木館に駆けつけ、山木館に火の手があがったのは明け方のことでした。
劇中では、山木兼隆の首をとったのは北条時政でしたが、『吾妻鏡』によると、首をとったのは加藤景廉だったようです。『吾妻鏡』には北条義時の名は記されていませんが、おそらく父と共に行動していたと見ていいでしょう。たぶん、初陣だったでしょうね。それにしても、劇中で北条時政が山木兼隆の首をもぎ取るシーンはなかなかおぞましかったですね。よく、チャンバラ映画などで戦闘中に鮮やかに首をはねるシーンがあったりしますが、動いている相手の首をはねるなんて本来不可能で、実際にはおそらくドラマで描かれていたように、絶命した遺体の首を“はねる”というより“もぎ取る”といった感じだったのでしょう。今回のシーンは妙にリアルで迫力がありました(実際に首をもぎ取るところを見たことはないですが)。
翌18日、頼朝はこれまで毎日行ってきた勤行が合戦によって出来なくなると考え、走湯山の法音尼に代行を依頼し、さらにその翌日の夜には、妻の北条政子を走湯山の文陽房覚淵の坊に身を潜めさせました。文陽房覚淵は流人時代の頼朝を援助した浪人の加藤景員の次男であり、山木兼隆の首をとった加藤景廉の兄弟にあたります。頼朝は覚淵に厚い信頼を寄せ、政子は10月11日に鎌倉で頼朝と再開するまで、覚淵に匿われました。
初戦に勝利した頼朝は、8月19日、伊豆国の蒲屋御厨に下文を発給し、山木兼隆と結んでいた中原知親の支配を禁じることを命じます。その理由は、非法を行い民衆を苦しめていたということで、顔が長かったからじゃありません(笑)。注目すべきは、その下文のなかに、「親王宣旨状」と、以仁王の名があったこと。頼朝は、東国支配を正当化するための権威の武器として、以仁王令旨を利用したんですね。
さて、初戦に鮮やかな勝利を収めた頼朝でしたが、これは敵の油断をついた不意打ちに過ぎず、平家の家人たちがこのまま引き下がるはずはありません。平家方の追手に立ち向かうには、強大な兵力を要する援軍が必要とし、三浦氏、上総氏、千葉氏らの参陣を待ちますが、最も頼みにしていた三浦氏は豪雨による川の増水によって行く手を阻まれ、合流できませんでした。そこで頼朝は、三浦氏と合流するために軍勢を率いて東進し、相模国土肥郷に向かいます。『吾妻鏡』によると、その軍勢は、北条氏、工藤氏、天野氏、宇佐美氏など伊豆の有力武士団、そして土肥氏、岡崎氏など相模国西部の武士団を中心に、約300騎だったと言います。山木兼隆を襲撃した際の兵が約30~40騎ほどだったことを思えば、わずか数日で多くの武士が頼朝のもとに馳せ参じたことがわかりますね。このとき頼朝に従った者のなかに、北条四郎(義時)の名が見られます。これが、義時が史料に登場した最初と言われています。
8月23日、頼朝軍は相模湾を見下ろす石橋山に陣を布きます。一方の平家方は、総大将の大庭景親が相模国、武蔵国の平家方を糾合し、約3000騎の軍勢で頼朝軍の行く手を阻みました。さらに、伊東祐親も約300騎を率いて頼朝軍の背後から迫ります。その日の夕方、酒匂川東岸にたどり着いた三浦氏の軍勢が、近隣の大庭景親の党類の家屋を焼き払いました。劇中、三浦義村がわざわざ自身の立場を明かすようなことをする必要はないと言っていましたが、やっちゃったんですね。その煙を見て三浦氏の仕業と察した大庭景親は、三浦氏が酒匂川を渡る前に勝負を決するのが得策だと考え、ただちに大軍で頼朝の陣を急襲しました。世にいう石橋山合戦の始まりです。
劇中、戦闘開始前に北条時政と大庭景親が悪口の言い合いをしていましたが、あれはドラマの創作ではなく、「言葉戦い」という当時の合戦の作法でした。戦いの前にまず互いに言葉で相手をやりこめようとすることで、言葉戦いに勝てば、味方の士気が上がったそうです。劇中の二人のやりとりは、ほぼ『平家物語』の記述どおり。時政が景親に対して、「かつて源義家に従った景正の子孫ならば、なぜ頼朝公に弓を引くのか」と責めると、これに対して景親は「昔は昔、今は今、恩こそ主よ」と言い放ち、「景親は平家の御恩を蒙る事、海山の如く高く深し。恩知らずは木石なり。」と吐き捨てました。景親の名台詞ですが、後年、これと同じような台詞を北条政子が発することになりますので、覚えておきましょう。
合戦は兵力差のわりには激戦となり、翌日まで続きます。劇中の頼朝は右往左往していただけでしたが、実際の頼朝は、弓矢をもって自ら戦い、百発百中の武芸を見せたと伝わります。しかし、衆寡敵せず、ついに敗走を余儀なくされ、頼朝は地元の土肥実平の手引で山中深く身を潜めます。ドラマでは北条父子も頼朝と同行していましたが、『吾妻鏡』によると、北条父子は頼朝の敗走を助けるべく奮戦していましたが、やがてはぐれてしまい、時政と義時は箱根を経て甲斐国に向かおうとしますが、嫡男の北条宗時は、父や弟と別行動をとりました。一族もろとも滅亡するのを避けようとしたためかもしれません。ところが、宗時は土肥山中から伊豆国の桑原、平井郷を経て早河付近まで逃走したところで、伊東祐親の手勢によって殺害されてしまいます。ドラマでは工藤茂光も一緒に殺されていましたが、『吾妻鏡』には、歩行が困難になったので自害したとあります。一説には、茂光は肥満体だったため思うように走ることができず、周囲の足手まといになることを嫌って自害したとも言われます。ドラマの茂光はたしかに肥満体でしたが、その説は採りませんでしたね。
「平家とか源氏とかそんなこと、どうでもいいんだ。この坂東を俺たちだけのものにしたいんだ。坂東武者の世を作る。そしてそのてっぺんに北条が立つ。そのためには源氏の力がいるんだ。頼朝の力が、どうしてもな。だからそれまでは辛抱しようぜ。」
劇中、宗時が義時に言った最後の台詞ですが、このときの板東武者たちの思いは、案外こんな感じだったかもしれませんね。
それにしても、宗時と茂光を殺した善児、不気味ですね。たしか第1話で千鶴丸を殺したのも善児でしたね。『吾妻鏡』では、宗時を討ち取ったのは小平井久重という武士だったとしていますが、善児と同一人物でしょうか? 三谷さんの描くキャラですから、何か伏線がありそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2022-02-07 18:09 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(4)
「草燃える」では、宗時の最期は勇壮な討ち死にでしたから、暗殺では何か違和感が残りましたね。
まあ、これがこの後の展開に繋がっていくんでしょうが。
ちなみに、「草燃える」は、北条政子が主役でしたので、そこ以外は、良い人に描く縛りが無く、石坂浩二の頼朝の印象が強いのですが、そのときの義時役は今回の平清盛の松平健。
最近はこういう配役が多いですね。
「草燃える」はわたしは小6から中1ぐらい。
ときどき観た記憶はありますが、がっつりは観ていませんでした。
古い大河ファンの方々には評価が高いドラマですよね。
原作の永井路子さんの著書は何冊か読んだことがありますし、改めて観てみたい大河ドラマのひとつです。
再放送してくれないかなぁ。
なるほど。
まあ、わたしが12、3歳ということは、貴兄は18、9歳。
日曜日の夜8時に家にいてテレビの前でじっとしているわけないですね。
デートで忙しかったのでは?
毎週違う彼女と(笑)。
北条政子なんか相手にしている場合じゃなかったでしょうね(笑)。