賤ヶ岳の戦いの柴田勝家の本陣・玄蕃尾城。 その4 <搦手郭・北馬出郭>
「その3」のつづきです。
玄蕃尾城主郭まで制覇したので、次は主郭北側の曲輪を攻めます。

写真は主郭北虎口です。

主郭南虎口と東虎口は切通虎口でしたが、ここは喰違虎口になっています。

外側から見た主郭北虎口。

ここで、もう一度、縄張り図を載せます。
現在地は違うので、無視してください。

北虎口を出てすぐ左手にある空堀。

反対側から見た空堀。
きれいに残っていますね。

北へ進むと、立て札が見えてきました。

立て札には馬出とあります。

馬出郭は主郭南側にもありましたが、ここは、主郭北側を守る出丸でしょう。

ここも周囲を土塁が囲います。


馬出郭西側の土塁が高い!!!

その土塁の西側には深い空堀があります。

そしてその空堀を超えると、向こうに広い空間が見えます。

広い!!

立て札には搦手郭・虎口郭とあり、兵站基地と書かれています。
ここは敵方の羽柴秀吉軍が陣を布く余呉湖方面とは反対側の曲輪ですから、ここに兵粮米などの物資が保管されていたということでしょうか?

それにしては、広すぎる気も。
ここにかなりの兵が収容できそうです。

とにかく広い!
野球のダイヤモンドより広い!

ここ搦手郭も、周囲を土塁で囲っています。

その土塁の外は空堀が巡っています。
スゴイ防御です。

搦手郭北東にある北虎口を出てみましょう。

外側から見た北虎口。
立て札には搦手口とあります。

搦手郭の土塁の外側には空堀がぐるりと巡っています。
歩いてみましょう。

見事な空堀です。

翌天正11年(1583年)4月に戦端が開かれた賤ヶ岳の戦いでしたが、戦いの帰趨は、羽柴秀吉の有名な「美濃大返し」などで劣勢に立たされた柴田勝家が、いち早くここ玄蕃尾城を捨てて北ノ庄へ退いたことで、勝敗が決しました。
その後、この城は打ち捨てられたまま、20世紀半ば頃までは「幻の城」として、草木に埋もれていました。

その「幻の城」が発見されたのは、昭和55年(1980年)、地元出身の城郭研究者・長谷川博美氏によってでした。
余呉湖のほとりで生まれ育った長谷川氏は、中学生の頃から近江の山城に登って縄張り図を書くなどの研究をしていたそうですが、長谷川氏が20歳のとき、玄蕃尾城の推定地に何度も登り、道なき道をかき分けて、山奥の藪の中から玄蕃尾城跡の遺構を発見したそうです。
スゴイですね。

現在は国の史跡として定期的な草刈り整備が行われており、こうして城跡の遺構がよく分かる状態で維持されています。
長谷川氏が発見するまで400年近くの間、人が足を踏み入れることがなかったため、遺構が破壊されることもなく、ほとんど合戦当時のままの姿をこうして見ることができるんですね。

それにしても見事な城です。
わずか1ヶ月ほどでよくこれほどの城を築いたものですね。
附城づくりの名人といえば秀吉というイメージがありますが、なんのなんの、勝家も決して負けてはいなかったことがわかります。
この立派な城が、たった1度の賤ヶ岳の戦いだけで打ち捨てられていたというのも、不思議な話ですね。

さて、これにて玄蕃尾城跡をすべて制覇しました。
とにかく見事な遺構の残り方で、終始、感嘆していましたね。
ただ、あまり知られていないのか、この日は令和2年(2020年)8月15日のお盆休み真っ只中だというのに、城跡で他の人に会うことはありませんでした。
まあ、人里はなれた場所ですからねぇ。
玄蕃尾城ひとりじめでしたね。
最後に、続日本100名城のスタンプを載せます。

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by sakanoueno-kumo | 2022-02-18 02:01 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)