賤ヶ岳七本鎗の一人・脇坂安治生誕地。
近江小谷城の西麓、長浜市小谷丁野町にある「脇坂谷」は、賤ヶ岳の七本槍の一人、脇坂甚内安治の生誕地です。
小谷城跡南麓から西麓を走る国道365号線沿いに、「脇坂甚内安治侯生誕地」と書かれた大きな看板があります。
そしてその看板の東側には、小谷城跡のある小谷山がそびえます。
看板の立つ道の入口には、「初期小谷城大手道」と刻まれた石碑があります。
織田信長に滅ぼされた浅井長政の時代には大手道は南側に移っていたようですが、長政の祖父にあたる浅井亮政が大永4年(1524年)頃に小谷城を築いた当初は、ここ西麓からが大手道だったと考えられているようです。
この細い道を山麓に向かって進みます。
「脇坂安治屋敷跡・産湯の池」と書かれた誘導看板が立てられています。
着きました。
どうやら、ここが脇坂安治屋敷跡のようです。
説明板です。
脇坂氏は元は浅井氏の家臣でしたが、浅井氏没落後は羽柴秀吉に仕え、播磨の三木城、神吉城攻めなどで武功を重ね、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられる活躍を見せ、豊臣政権下では洲本城主、徳川政権下では伊予大洲城主などを歴任します。
こちらは「脇坂甚内安治侯生誕地」と書かれた立て札。
そして、賤ヶ岳の七本鎗の看板もあります。
もっとも、賤ヶ岳の七本鎗と聞くと、どうしても福島正則と加藤清正が目立って、あとのメンバーは影が薄いですよね。
実際、当時からも、7人というのは単に語呂合わせで、福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語っていたとか、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったという逸話が伝えられています。
賤ヶ岳七本鎗というのは、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いを過大に喧伝した虚名だったといえるかもしれません。
説明書きの駒札と、その向こうに幟と石碑があります。
説明書きです。
ここには、安治は当初、明智光秀に仕えていたと書かれていますね。
たしかに、光秀の丹波攻めの際、その与力として黒井城の戦いで功を上げたという説もあります。
光秀の第二次丹波攻めが開始されて間もない天正6(1578年)3月9日、黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直正は病没したと伝わりますが、その死の直前、明智軍の与力だった安治が単独でこの城内を訪れて降伏を勧めたといい、その態度に感心した直正は、赤井家伝来の家宝である「貂の皮の槍鞘」を安治に贈ったという逸話があります。
以後「貂の皮」は脇坂家の家宝となります。
もっとも、当時の安治の身分と活躍する内容が合わず、脇坂家の馬印としての価値を高めるため、後世に創作された話だと考える向きも多く、真偽はわかりません。
このエピソードを描いた小説として、司馬遼太郎の短編『貂の皮』があります。
そこでは、直正が安治に贈った貂の皮は「雌の貂の皮」で、「雄の皮」のことを安治が尋ねると、直正は「雄の貂は、まだまだわしの背に居たがっている。もしほしければあす、卯ノ刻、槍さきでとってみることだ」といい、翌日、直正と安治は槍を合わせるも、病に侵されていた直正は力が続かず、ついに安治に首を討たれ、雄の貂の皮も安治のものとなります。
これは、司馬氏の創作ですが、なかなか面白いので興味のあるかたは読んでみてください。
ちなみに、この貂の皮の現物は、現在も安治を祀る兵庫県たつの市の龍野神社に宝物として納められています。
赤い幟には「輪違い」の家紋が染められています。
この家紋は、播磨の三木城攻めで武功を上げた際、秀吉から武勲として「輪違い」紋の母衣を賜り、以後、脇坂氏の家紋となったと伝えられます。
石碑には、「脇坂甚内安治屋敷跡」と刻まれています。
敷地内には、安治産湯の池と伝わる小さな池があります。
誰かの生誕地と言われる場所には、必ず産湯伝説の池とか井戸がありますよね。
こちらがその池。
石碑も建てられています。
説明板です。
かつてここには脇坂家代々の崇敬の神社・五社大明神(稲荷神社)が祀られており、その境内にあったお手水池が、安治の産湯に使われたそうです。
まあ、たしかに、ここで安治が生まれたのは事実であれば、ここの水が産湯に使われたとしても何らおかしくはないでしょう。
敷地内には、その五社大明神(稲荷神社)の跡が残されています。
顕彰碑です。
五社大明神は明治に入って稲荷神社と改称され、明治41年(1908年)に岡本神社に合祀されるまでこの地にあったようです。
脇坂安治の後世のイメージは、賤ヶ岳の七本鎗というよりも、関ヶ原の戦いの際に西軍から東軍に寝返った武将としての印象が強いのではないでしょうか?
合戦の勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返りに便乗して、一緒に布陣していた朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に安治も東軍に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させました。
関ヶ原の戦後、徳川家康は戦闘中の寝返りを評価せず、一緒に寝返った元綱は減封、祐忠と直保は改易処分となりますが、脇坂家だけは家康から嘉賞され、2万石を加増されました。
その理由は、ほかの連中とは違い、戦前から通款を明らかにしていたということで、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、所領を安堵されたと言われますが、その真偽は定かではありません。
江戸時代に入り、豊臣系の大名がことごとく取り潰されていくなか、七本鎗のメンバーでは脇坂家だけが大名として残り、安治の孫の代からは播州龍野城主となり、明治維新まで続きます。
福島正則や加藤清正に比べて影が薄かった脇坂安治ですが、実は7人のなかでいちばんしたたかだったのかもしれません。
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by sakanoueno-kumo | 2022-02-24 00:16 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)