豊臣秀次が築いた八幡山城を歩く。 その6 <八幡堀と城下町>
「その5」のつづきです。
山頂の八幡山城と麓の城館跡をめぐったあと、城下町を歩きました。
近江八幡市の旧市街地だったこの城下町は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

天正13年(1585年)に八幡山城の築城を開始した豊臣秀次は、同時に城下町の整備を進め、安土城の城下町の町民を移住させました。
町は縦12筋、横4筋の整然とした碁盤の目状に整え、職人町、商人町、仲介商人町などに区分しています。
この時代の城下町は、戦いに備えて町をジグザグに迷路化するのが普通でしたが、秀次は交通の流れを考え、商業による町の発展を第一に考えた区画整備をしたようです。

そして、町の整備とともに造られたのが、全長6kmに及ぶ運河「八幡堀」です。

八幡堀は近江八幡市街地と琵琶湖を結ぶ人口水路で、城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する商業的役割を兼ね備えた画期的なものでした。

堀幅11~18m、深さ1.4mだそうです。

また、秀次は「八幡山下町中掟書」十三ヶ条を交付し、楽市楽座として多くの特権を与えました。
水陸の交通を利用するものはすべて八幡の町に入らなければならない決まりを定め、町に多くの人や物資、情報が集まる仕組みを作りました。

この八幡堀とその仕組みのおかげで近江は商業が発達し、八幡山城は秀次の自害を受けて廃城となるも、城下町は商家町として存続し、江戸時代には近江商人(八幡商人)により繁栄を極めることになります。

その繁栄は近代になってもつづき、昭和初期までは150石船が行きかっていたそうですが、戦後は陸上交通の発展によって廃れました。
その後、昭和40年代になると、堀には下水が流入し、川底にはヘドロが堆積して悪臭を放つようになり、昭和47年(1972年)には堀を埋め立てて公園と駐車場にする計画が出たそうですが、地元の人達の堀の保存修景運動によって整備され、現在の美しい景観を取り戻したそうです。

城下町の写真をもっと撮っていたつもりが、八幡堀の写真ばかり撮っていたようです。

八幡堀の景観は、『暴れん坊将軍』『鬼平犯科帳』『剣客商売』『御家人斬九郎』『るろうに剣心』などのロケ地にもなっているのだとか。

お堀めぐりの船です。
この日は時間の都合で乗りませんでしたが。

八幡堀と雁木。
NHK朝ドラ『あさが来た』のロケ地にもなった場所です。
その向こうに見える山の山頂に八幡山城があります。

秀次が八幡山城主だったのはわずか5年間だけでしたが、この街づくりや治世に関しては、当然、秀次だけでなく秀吉の意向もあったでしょうが、そのわずか5年間で、商いの町としての繁栄の基礎を築いたことは間違いありません。
最後に続・日本100名城のスタンプを載せます。

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by sakanoueno-kumo | 2022-03-13 09:23 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)