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鎌倉殿の13人 第10話「根拠なき自信」 ~義経と頼朝の邂逅と金砂城の戦い~

 富士川の戦い後の治承4年(1180年)1021日、黄瀬川宿に逗留していた源頼朝の元へ、一人の若者が訪ねてきました。頼朝の異母弟でこのとき22歳になっていた源九郎義経ですね。『吾妻鏡』は、このときの様子を次のように記しています。


 今日、弱冠一人、御旅館の砌に佇み、鎌倉殿に謁したてまつるべきの由を称す。実平(土肥)、宗遠(土屋)、義実(岡崎)等これを怪しみ、執啓に能はず剋を移すのところ、武衛(頼朝)自らこの事を聞かしめ給ふ。年齢の程を思ふに、奥州の九郎か。早くご対面有るべしてへれば、仍って実平、彼の人を請ず。果して義経主なり。即ち御前に参進して、互いに往時を談じ、懐旧の涙を催す。


 頼朝の宿営の傍らに佇んでいた一人の若者が、頼朝に面会を申し入れますが、土肥実平らが警戒して頼朝に取り次がずに時が経ってしまったところ、頼朝がこれを知り、年の頃から考えて九郎かもしれないと思い、すぐに招き入れたところ、やはり義経であった。対面した二人は互いに応じのことを語り合い、昔を懐かしんで涙を流した・・・と。


鎌倉殿の13人 第10話「根拠なき自信」 ~義経と頼朝の邂逅と金砂城の戦い~_e0158128_20044046.jpg 義経は平治の乱が勃発した平治元年(1159年)生まれで、従って義経には父・源義朝の記憶もなく、頼朝ともまったくの初対面だったはずです。なので、昔を懐かしんで涙を流したといっても、互いの共通の思い出などはなかったでしょう。平治の乱後の互いの人生について語り合ったのでしょうね。義経については有名なのでここで解説するまでもないと思いますが、平治の乱後、出家を条件に助命されて鞍馬山に入るも、承安4年(1174年)3月ごろに鞍馬山を出奔し、奥州平泉にて藤原秀衡の保護を受けていました。秀衡は義経をわが子のように可愛がったといいますが、しかし、頼朝の挙兵の知ると、義経は秀衡の制止を振り切り、佐藤継信、忠信兄弟らわずかな郎従を率いて、頼朝のもとに馳せ参じます。そして涙の対面を果たした二人でしたが、義経が頼朝に反旗を翻すのは、これよりちょうど5年後のこと。義経の武将としての活躍は、ここからわずか5年間に限定されます。


 義経と涙の対面を果たした2日後の1023日、頼朝は相模国府において論功行賞を行いました。同日、平家方の大庭景親山内首藤経俊が降伏してあらわれます。当初、頼朝は二人とも許さないつもりだったようですが、山内首藤経俊は頼朝の乳母子で、母の山内尼が頼朝に泣きついたことから、ドラマのとおり経俊は赦されます。しかし、石橋山合戦における平家方の実質総大将だった大庭景親は許されることはなく、26日、鎌倉の西出入口にあたる固瀬川において処刑、梟首されました。


 鎌倉殿の13人 第10話「根拠なき自信」 ~義経と頼朝の邂逅と金砂城の戦い~_e0158128_20415557.jpg27日、頼朝軍は休む間もなく常陸国に向けて出陣しました。そして114日に常陸国府に到着すると、まず佐竹義政上総広常が国府に誘い出し、殺害します。謀殺でした。つづいて頼朝軍は弟の佐竹秀義が籠もる金砂城を攻めますが、金砂城は高山の頂上に築かれた難攻不落の城であり、苦戦を強いられます。そこで、翌5日に上総広常が秀義の叔父の佐竹義季内応をもちかけて寝返らせ、義季の案内で金砂城の背後にまわると、秀義は城を捨てて逃亡しました。ドラマでは、敵の背後に回って上から攻めるという奇策義経が献策していましたが、これはドラマの創作ですね。実際には、義経がこの金砂城攻めに加わっていたかどうかも定かではありません。義経の天才戦術家としての技量と、今回のドラマでの義経の人物像を伝える上での創作でしょう。戦をさせたら右に出る者はいない義経でしたが、政治力で敵を降らせるという戦い方を、義経は最後まで理解することはできなかった。それが、頼朝と義経が分かりあえなかった最大の要因でした。その対立が、これから少しずつ描かれていくのでしょう。


 それにしても、「経験もなくて自信もなくては何も出来ない」と言った義経の台詞。これ、なかなかの名言でしたね。たしかにそのとおりです。失敗を怖れずに積極的な行動を起こすには、今話のタイトルの「根拠なき自信」がなければ前には進めません。特に若いうちはそうですね。わたしのようなオッサンになると、つい経験値でものを考えてしまう。結果、既成概念にとらわれて行動パターンが単純化してしまいます。この義経の台詞は、オジサンにはなかなか響きました。劇中でも北条時政に響いていたようですね。わたしはあの時政と一緒か~(苦笑)。


 源義経、源範頼、阿野全成、そして最後に義円が加わり、存命の頼朝の兄弟が揃いましたね。もっとも、義円だけは『吾妻鏡』にその存在が記されておらず、頼朝のもとに馳せ参じたかどうかは定かではありません。いずれにせよ、この4人共、のちに非業の死を遂げることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2022-03-14 17:10 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2022-03-16 17:35
>「経験もなくて自信もなくては何も出来ない」

私はあんまり響きませんでしたねぇ。
おっさんを越えて、もう一段、ジジイになってしまったようで、上総之介と同じでしょうか。
佐藤浩市も同世代ですし(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-03-17 17:08
> heitarohさん

そうですか。
まあ、貴兄の場合、経験も自信もあふれるほどおありでしょうから、縁のない言葉かもですね。
わたしの場合は、経験があっても自信が持てないネガティブな性格なもので・・・。
怖いもん知らずで行動できる人がうらやましいです。

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