近江商人の氏神・日牟禮八幡宮。
前稿まで近江八幡市にある八幡山城とその城下町を歩いてきましたが、その八幡山城の麓、シリーズ「その1」で紹介したロープウェイ乗り場のすぐ側に、日牟禮八幡宮があります。
近江八幡の城下町に鎮座するこの神社は、古くから八幡商人(近江商人)の尊崇を集めてきました。

日牟禮八幡宮の歴史はめちゃめちゃ古く、伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇(第13代天皇)が高穴穂の宮に即位のとき、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされています。
応神天皇6年(275年)、応神天皇(第15代天皇)が奥津嶋神社から還幸のとき、社の近辺に御座所を設けられ休憩したそうで、その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたといわれます。

もっとも、成務天皇は実在性が定かでない天皇なので、この社伝は眉唾ものでしょうね。
応神天皇は実在性の高い天皇とされていますが、130歳で崩御したという古事記の記述は到底信じられず、即位の期間や年代も定かではありません。
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊とされていますから、社伝に名が出てくるのでしょう。

信憑性のある社伝でいえば、正暦2年(991年)、一条天皇(第66代天皇)の勅願により八幡山の上に社を建立し、宇佐八幡宮の分霊を勧請して八幡宮となったそうで、さらに、寛弘2年(1005年)に遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けたそうです。
たぶん、このときが創建だったんじゃないかと。

天正13年(1585年)に近江八幡45万石の大名となった豊臣秀次が八幡山山頂に八幡山城を築城する際、上の八幡宮を下の社に合祀しました。
その後、八幡山城は秀次の自害とともに廃城となりますが、城下町は近江商人の町として発展し、日牟禮八幡宮は近江商人の守護神として信仰を集めるようになります。

関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)9月18日には、徳川家康が武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十石の地を寄附したそうで、のちに、徳川家光や徳川家綱も御朱印を下しているそうです。

わたしがここを訪れたのは真夏の8月でしたが、3月に左義長まつり、4月に八幡まつりがここで盛大に執り行われるそうです。
「左義長まつり」は、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行っていた祭りで、『信長公記』によると、信長自らも異粧華美な姿で躍ったと記されている奇祭です。
「八幡まつり」は、毎年4月14日と15日に行われ、14日の「宵宮祭」は別名「松明祭」とも呼ばれ、10m余の大松明をはじめとする合計30本以上の松明に火が付けられ、多数の仕掛け花火とともに春の夜空を焦がす大迫力の祭りで、国の無形民俗文化財に選定されています。
社伝によると、応神天皇が行幸の際、母である神功皇后の生地、近江・息長村(現在の坂田郡)を訪問する際、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸し、その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭りのルーツとされているそうです。
まあ、この伝承が実話かどうかは別にしても、1000年以上続く歴史ある祭りであることは間違いありません。

古代天皇にはじまり、織田信長や徳川家康といったビッグネームとも縁のあったという日牟禮八幡宮。
近江八幡の城下町を訪れたら、ここには必ず参拝しておくべきでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2022-03-16 22:33 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)