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豊臣秀次とその妻子が眠る瑞泉寺。

京都の繁華街、木屋町通りを歩いていると、瑞泉寺というお寺の山門前に立つ一基の石碑が目に入りました。


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石碑には、「前関白従一位 豊臣秀次公之墓」と刻まれています。

言うまでのなく、豊臣秀吉の甥にして悲惨な最期を遂げた豊臣秀次のことですね。


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秀吉と淀殿の間に生まれた第一子の鶴松夭折し、この時点で55だった秀吉はもはや実子は望めぬと考え、甥の秀次を家督相続の後継者として養子に迎え入れ、関白職を譲りました。

しかし、その2年後に秀吉に再び待望の実子・が生まれます。

のちの豊臣秀頼ですね。

きっと秀吉は、秀次に関白職を譲った自身の早計さを嘆いたことでしょう。

その思いが、後世に悪評を残すことになる「秀次事件」に発展していきます。


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秀吉も最初は、秀頼と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で事を進めていました。

娘婿に継承というかたちであれば、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えだったのでしょう。

しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀次が約束どおり拾を後継者とするか、心配で心配でいたたまれなかったのでしょうね。

秀吉は次第に、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになります。


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まず秀吉は、伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。

秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めました。

寂れていく聚楽第に残された秀次は、きっと危機感を覚えたに違いありません。

結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだったでしょう。

そうすれば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。

しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまうんですね。

権力というものは、一度手にすると手放したくなくなるもので、それは、現代の社会でも変わりません。

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文禄4年(1595年)73日、石田三成増田長盛前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。

秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、78日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。

高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の715日、秀吉の命により切腹して果てます。

享年28

一時は権力の頂点を手に入れた秀次でしたが、やはり、棚ボタで手に入れた地位とは脆いものです。

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その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の82日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑されます。

彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。

その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。

戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、この時の秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。

彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたといいます。

秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。

このときの秀吉は、もはや正常な精神状態ではなかったのかもしれません。

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その秀次の墓がなぜここにあるかというと、秀吉が作らせた「畜生塚」は、その後、鴨川の氾濫などで荒廃してしまっていたそうですが、時は下って慶長16年(1611年)、京都の豪商・角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に「秀次悪逆塚」と刻まれていたそうで、秀次の石塔だということがわかったそうです。

角倉了以の実弟・吉田宗恂(医師)は秀次に仕えていたことがあり、宗恂は秀次事件への連座は免れたそうですが、この前年の慶長15年(1610年)に死去していました。

その縁から、了以は秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立したそうです。


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秀次の供養塔です。

左右に秀次の妻子や殉死した家臣たちを弔う49柱の五輪塔が並びます。


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説明書きによると、中央正面の古石は秀次の御首を納めた「中空の石びつ」だそうで、正面右下に秀次が自害させられた「七月十五日」の文字が刻まれているそうです。


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その石びつです。

たしかに、透明のアクリルカバーに白文字で「七月十五日」と書かれている右横に、刻まれた文字が確認できます。


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こちらの宝篋印塔は、秀次一族の供養塔だそうです。


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お墓の横にある地蔵堂です。


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説明書きの駒札


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地蔵堂の中です。

中央が地蔵菩薩像、その左右のひな壇にならぶ小像は、秀次の妻子らと殉死した家臣の像だそうです。


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その説明書きです。

昭和16年(1941年)に故・松下幸之助氏らが設立した財団法人「豊公会」が、秀次一族の没後350の記念事業として、この地蔵堂の改修や、妻子、家臣など49霊供養の五輪塔、そしてこの小像も作ったそうです。


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秀吉が起こした「秀次事件」は、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この事件が後世に残した影響は計り知れません。

この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことが、結局のところ豊臣政権の弱体化を招いたことはたしかで、このとき秀次の謀反の企てに関与していたと疑われた大名たちが、総じて「関ヶ原の戦い」で徳川方に属することとなったのも事実です。

わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。

まさに、歴史上もっとも大きな権力を持った究極のモンスターペアレントといえるでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2022-03-18 00:26 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

Commented at 2024-06-06 08:27
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2024-06-08 11:14
> kyotoshiryoさん

はじめまして。
コメントありがとうございます。
せっかくコメントいただいたのですが、当方、いま仕事が多忙を極めており、ゆっくりブログと向き合う時間がありません。
落ち着いたらじっくり読ませていただきますね。

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