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鎌倉殿の13人 第11話「許されざる嘘」 ~頼朝政権誕生と清盛の死~

鎌倉殿の13人 第11話「許されざる嘘」 ~頼朝政権誕生と清盛の死~_e0158128_22354664.jpg 常陸国の佐竹攻めが終わり、治承4年(1180年)1117日に鎌倉に帰還した源頼朝は、石橋山の戦い後わずか3か月余りで急激に膨れ上がった軍を管理統括するため、家政機関の侍所を設置し、三浦義澄の甥である和田義盛を長官の侍所別当に任じました。第6話で義盛が頼朝に自身を「侍所別当に任じてほしい」と売り込んでいましたが、その約束を果たしたかたちですね。この逸話は『平家物語』が伝える話ですが、史実かどうかは定かではありません。おそらく、のちに義盛が別当に任じられることを知ったうえで描かれたフィクションでしょうね。


 そして1212日、鎌倉大倉郷に新築していた頼朝の邸宅(大倉御所)が完成し、そこに頼朝が転居する「移徙(わたまし)」の儀式が盛大に営まれました。和田義盛が先頭、畠山重忠を最後尾に列した頼朝の行列が新御所に入り、十八間(約33m)という長大な広間に、311の侍たちが2列に向かい合って着座したといいます。ここで一堂に会し、頼朝と対面した311人の武士たちが、主従の契りを交わしました。『吾妻鏡』のこの日の条文は、次のように伝えます。


 しかりしより以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉の主となす


 鎌倉殿の13人 第11話「許されざる嘘」 ~頼朝政権誕生と清盛の死~_e0158128_20415557.jpgこの日より、頼朝は鎌倉の主・鎌倉殿となりました。そして頼朝と対面した311人の武士たちが、頼朝に直属する家人となります(のちに彼らは頼朝への敬意から「御」の一字を付され、「御家人」と呼ばれるようになる)。この移徙の儀式は、鎌倉殿を国王とする東国の独立国家の誕生を意味するものだったともいわれます。鎌倉幕府成立はいつだったかという議論で、頼朝が征夷大将軍となった1192「いい国つくろう鎌倉幕府」とか、守護・地頭を設置した1185「いい箱つくろう鎌倉幕府」とかが教科書で習う鎌倉幕府の始まりですが、最も早い段階での解釈でいえば、この1180の移徙の儀式からという見方もあります。まあ、実質的には、ここから始まったという区切りなどはなく、段階的に形成されていったものと考えるのが正しいのでしょうけどね(そもそも元号とは違って、今日から鎌倉時代、昨日まで平安時代なんて区切りはないわけで)。


 ちなみに、劇中、儀式の席で北条義時が頼朝の横に着座して儀式を進行していましたが、あれはドラマの創作ですね。あの席に座るべきは別当となった和田義盛だったでしょう。


 鎌倉殿の13人 第11話「許されざる嘘」 ~頼朝政権誕生と清盛の死~_e0158128_18120067.jpg富士川の戦いの敗北以降、威信の低下が深刻となった平家一門は、反乱鎮圧に専念するため、平清盛の長年の悲願であった福原遷都を断念し、京都に還都しました。このころ、近江源氏の山本義経、柏木義兼兄弟と延暦寺堂衆、園城寺衆徒らが連携して反平家の兵を挙げていましたが、清盛は園城寺を焼き討ち、たちどころに近江を制圧しました。続いて清盛は畿内最大の反平家勢力・南都興福寺を討伐すべく、平重衡を総大将とする追討軍を南都に差し向けます。南都に攻め入った追討軍は、興福寺、東大寺など七寺院に火を放ち、興福寺では金堂や南大門をはじめ堂舎38ヶ所が燃え尽き、東大寺も正倉院を除いてほとんどの堂舎が消失大仏もむざんに焼きただれました。『平家物語』によると、大仏殿の2階には老僧や子供などが避難していて、追手が来ないよう梯子をはずしていたため迫り来る炎から逃れられず、無惨極まりない地獄絵図が繰り広げられたといいます。焼死者の数は数千人にものぼったとか。このとき討ち取られた悪僧49人の首級は、ことごとく溝や堀に打ち捨てられたといいます。


 この「南都焼き討ち」について『平家物語』では、夜戦となり明かりが必要になったため民家に火を放ったところ、風にあおられて瞬くまに燃え上がったとあります。あくまで過失だったと伝えていますが、しかし、南都攻めの手始めとして追討した園城寺を焼き討ちしていることを思えば、この南都焼き討ちも計画的だったと考えていいのではないでしょうか。


 こうして武力を背景に勢力を盛り返しつつあった平家でしたが、思わぬ事態が起こります。清盛の急死でした。治承5年(1181年)2月末ごろに突如病に倒れた清盛は、発病からわずか7日間で帰らぬ人となりました。そのあまりに突然の死に、当時の人々の間は南都焼き討ちの仏罰であるという認識が強かったようで、九条兼実は日記『玉葉』のなかで「清盛は本来骸を戦場に晒すべきところを、戦乱を免れて病没するとは運がよい」と述べつつ、その死が「神罰・冥罰によることは疑いない」と述べていいます。清盛の死をあからさまに喜ぶ者も少なくなかったようです。


『平家物語』「入道死去」によると、死を目前にして妻・時子が、「此世におぼしめしをく事あらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰をけ(この世に言い残しておきたいことがありましたら、意識がある間に仰ってください)と語りかけたところ、清盛は「今生の望一事ものこる処なし」と前置きした上で、「思ひをく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつることこそやすらかね。(中略)やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に懸くべし」と語ったといいます。また、清盛が死んでから半年ほど後の『玉葉』には、平宗盛後白河法皇「故禅門(清盛)閉眼の刻、遺言して云はく、我が子孫、一人といへども生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべしと云々」と発言したことが記されています。『玉葉』『平家物語』、2つの史料に見られることから、この遺言本当の話だったのでしょうね。ドラマのナレーションでも言っていましたが、この清盛の遺言が、平家の運命を狂わせていきます。


 前話で頼朝の兄弟4が揃ったばかりでしたが、早くも義円が欠けちゃいましたね。義円は叔父の源行家が尾張で挙兵すると、その陣に参加し、功を焦って単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるも失敗し、平家の家人の高橋盛綱討ち取られたと伝わります。享年27。軍記物の『源平盛衰記』によると、頼朝は義円に1000ほどを与えて行家援護のために派遣したと記されていますが、『吾妻鏡』には、義円が頼朝の元に馳せ参じたことすら記されていないことから、義円は頼朝とは合流せずに直接尾張に入り、行家とともに独自に挙兵したという見方が強いようです。ドラマでは、その両説を上手くミックスして物語にしていましたね。義円をそそのかしたブラック義経は、なかなか心に闇がありそうですが。


 北条政子懐妊による恩赦三浦義澄に預けられていた伊藤祐親一命が赦されたのは実話です。しかし、祐親はこれを潔しとせず、「以前の行いを恥じる」と言って自害したというのが通説です。また、息子の伊東祐清も、父が自害を遂げると自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したというのが『吾妻鏡』の伝えるところです。ところがドラマでは、頼朝の命令の下、祐親の下人の善児によって祐親、祐清父子が殺害されるという設定でしたね。衝撃でした。今年のドラマは、史実、通説を損なわないギリギリのところでオリジナリティを出すという秀逸さが目立ちますね。さすが三谷さんです。


 江間の領地を与えられた義時に、頼朝のはからいで八重との縁談があがっていましたが、これはドラマのオリジナルではなく、ドラマの時代考証担当の歴史家・坂井孝一氏の推論によります。もっとも、この話はまだドラマで続きがありそうなので、次回以降に稿を譲ります。


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by sakanoueno-kumo | 2022-03-21 14:27 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)

 

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