秀吉が築き、家康が建て直した幻の城、伏見城。
京都の平安京から南に少し離れた伏見に、かつて伏見城がありました。
伏見城は豊臣秀吉が築いた指月伏見城と木幡伏見城、そして関ヶ原の戦い後に徳川家康が再築した3つの城があります。
しかし、現在はその遺構はほとんど残っておらず、観光用の模擬天守があるのみです。

立派な櫓門があります。
でも、もちろんこれも模擬城門。
実際の伏見城跡はこの場所ではなく、このすぐ近くの明治天皇陵(伏見桃山御陵)内にほぼ全域が含まれているため、現在は自由に立ち入ることはできません。
ここは、昭和39年(1964年)から平成15年(2003年)まで約40年間営業していた「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地の跡地です。

城門横には「伏見桃山城」と刻まれた石碑があります。

そして城門をくぐると、立派な模擬天守が聳えます。

この模擬天守も、上述した伏見桃山城キャッスルランドのシンボル的建築物として建てられたもので、歴史的根拠がある復元ではありませんが、一応、洛中洛外図屏風に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った天守として築かれました。
昭和39年当時の金額で6億円かけたそうです。
平成15年(2003年)、キャッスルランドは経営不振によって閉館となりましたが、その際、この天守も取り壊される予定だったそうですが、近隣の市民からの強い要望によって保存されることとなり、京都市に贈与されて伏見桃山城運動公園として整備されました。
ただ、天守は現在の耐震基準を満たしていないことから、現在は建物内に入ることはできません。

秀吉が最初に築いた指月伏見城は、天正19年(1591年)に甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲ったあと、翌年に自らの隠居所として普請をはじめた屋敷でした。
あくまで当初は隠居のための屋敷だったんですね。
ところが、翌年に実子の拾丸(豊臣秀頼)が産まれたことで状況は一変。
拾丸に大坂城を与えると想定し、隠居屋敷は大規模な改修が行われることになります。
淀城から天守、本丸の櫓門、二ノ丸の櫓などを移築し、本格的な城郭として整備されました。
文禄4年(1595年)に秀次事件が起きると、破却された聚楽第からも建物が移築されました。

指月伏見城の天守については詳しくはわかっていませんが、『甫庵太閤記』によると、「青貝の刻橋を上りければ、段々に金銀をもって瑩(みが)き立たる種々の調度、様々の屏風、帆帳御座鋪の見事さ、興さめ詞も及び難しと感じけり」とあり、きらびやかな天守だったことがうかがえます。

ところが、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)未明に発生した慶長伏見大地震によって、天守、御殿、大手門などが大破し、多数の死傷者が出ました。
このとき、秀吉は秀頼を抱いて庭に走り出て、城中に唯一残った台所に入ったのち、平地は地割れが起こるかもしれないと、明け方に指月岡の北東に位置する木幡山に避難したと伝わります。
秀吉は地震の翌日から避難していた木幡山に新たな伏見城の縄張りを始めました。
これが、2代目伏見城の木幡伏見城です。
倒壊した指月伏見城は火災が起きなかったようで、建物の資材の多くが再利用可能で、わずか3か月で本丸が完成しました。

しかし、その2年後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉はこの木幡伏見城で息を引き取ります。
その遺言により、秀頼は大坂城に移り、伏見城には徳川家康が入りました。
『多聞院日記』には、家康の伏見入城を「天下殿になられ候」と記されており、伏見城が天下人の城と認識されていたことがわかります。
その後、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは、家康の家臣・鳥居元忠が伏見城を守っていましたが、石田三成方の攻撃によって全焼しました。

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、木幡伏見城を再建しました。
これが、3代目伏見城です。
家康の天守についても詳しいことはわかっていませんが、洛中洛外図屏風に描かれている五重天守は、この3代目伏見城の天守です。
つまり、この模擬天守は家康の天守を模したことになりますね。
家康は征夷大将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来していましたが、在城期間を累計すると伏見城のほうが多かったといわれ、家康、秀忠、家光の三代の将軍宣下式や武家諸法度の告知などが行われるなど、初期の徳川幕府の政庁としての役割を果たしていました。
大坂の陣後、しばらくは二条城が将軍参内時の宿舎、伏見城が居館用として利用され続けていましたが、一国一城令の主旨からも両城を維持するのは困難とし、元和5年(1619年)に伏見城の廃城が決まります。

歴史的価値のない模擬城とわかっていても、やはり天守はカッコいいですね。

ここを訪れたのは11月15日、紅葉が綺麗な季節でした。

廃城後、伏見城の天守は二条城に、また多くの建物は福山城や淀城など各地の城に移築されました。
その後、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれるようになります。
伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたそうですが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山御陵)となって宮内庁の管理下となり、現在も無許可での立入りが禁じられています。
ここ伏見桃山城運動公園は、御花畑山荘という城の北西部にあった曲輪跡に建設されています。

伏見城の本丸跡と思われる場所には、現在、明治天皇陵(伏見桃山御陵)があり、その参道には、伏見城の石垣に使用されていた石が展示されています。


石垣の多くは破城の際に建物と共に他の城の石垣に再利用されたといわれるため、この石は残存していた一部ということになりますね。


矢穴の跡がはっきり残っているところから見ても、これが石垣に利用された石であることは間違いないでしょう。

これなんかもそうです。


せっかくなので、本丸跡の明治天皇陵を参拝。


維新後、東京に皇居が移されましたが、「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」という天皇の生前のご意志により、この地に葬られたそうです。
明治天皇も秀吉のことは知っていたでしょうが、まさか秀吉が息を引き取った場所にご自身が眠ることになろうとは思わなかったでしょうね。
令和3年現在、西日本最後の天皇陵です。

明治天皇陵からの南側の眺望です。

豊臣秀吉、徳川家康という戦国三英傑の二人が築いたとされ、歴史的に大きな存在感があるにも関わらず、その詳細は謎が多い伏見城。
まさに「幻の城」です。
京都には秀吉が築いた「幻の城」が、あと2つあります。
次稿では、そのひとつ、聚楽第跡を歩きます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-03-23 22:17 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)