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秀吉が築き、秀吉が壊した幻の城、聚楽第。

前稿では豊臣秀吉が築いた伏見城跡を歩きましたが、今回は、同じく秀吉が築いた聚楽第跡を歩きます。

聚楽第は天正13年(1585年)に関白となった秀吉が京の政庁兼邸宅として普請を始め、天正15年(1587年)に完成しました。

しかし、わずか8年後、あの秀次事件によって聚楽第は徹底的に破壊されます。

そのため、現在も明確な遺構は残っておらず、その縄張り内の数カ所に石碑が建つのみです。

なので、今回はその石碑めぐりです。


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まず最初に訪れたのは、京都市立正親小学校北東に建てられた石碑。

ここは、本丸西堀跡と考えられています。


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聚楽第の敷地は、北は元誓願寺通、東は堀川通、南は押小路通、西は千本通を外郭とし、内郭には本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたと考えられています。


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石碑には「此附近 聚楽第址」と刻まれています。


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説明書きの駒札です。


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聚楽第の石碑の隣には、「平安宮大蔵省跡」と刻まれた石碑と説明板があります。

平安時代、この一体には平安宮(大内裏)があったとされ、その平安宮跡北東部分に秀吉が聚楽第を築きました。


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本丸西堀跡の石碑から300ほど東にあるハローワーク西陣の道路を挟んだ北向に、「聚楽第址」と刻まれた石碑があります。


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こちらの石碑は新しそうです。

平成4年(1992年)、ハローワーク西陣の建て替え工事の際、本丸東堀跡が検出され、金箔瓦約600が出土したそうです。

出土した金箔瓦は平成14年(2002年)に国の重要文化財に指定され、この石碑は平成21年(2009年)に建てられたそうです。


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石碑の側面には、「此附近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。


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石碑の説明書きです。


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ハローワーク西陣前の東堀跡石碑から松屋町通350ほど南下したところにある松永稲荷社の前にも、聚楽第跡を示す石碑があります。


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石碑には「聚楽城 鵲橋乃旧跡」と刻まれています。

聚楽城の堀に架かっていた「鵲(かささぎ)橋」の伝承から建てられた石碑だとか。


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側面を見ると「昭和七年十月建立」とあります。


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松永稲荷社から南西250ほどのところにある松林寺の山門前にも石碑が建てられています。

ここは以前、「京都幕末逍遥その94」でも訪れたお寺で、幕末、京都見廻組の屯所だったとされ、あの坂本龍馬暗殺の実行犯7人のリーダーだった佐々木只三郎が下宿していた場所と伝わります。


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石碑には「此附近 聚楽第南外濠跡」と刻まれています。

ここが聚楽第の南端だったようです。


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碑の横には、「平安宮内裏東限と建春門院跡」と書かれた説明板があります。


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続いて、武家屋敷跡をめぐってみます。

松林寺前の南外濠跡石碑から北西約200のところに、「聚楽第武家地・豊臣秀勝邸跡」と刻まれた石碑があります。


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豊臣秀勝は秀吉の甥で、秀吉の養子となっていた人物。

あの浅井三姉妹の三女・お江の2番目の夫でしたが、文禄元年(1592年)の第一次朝鮮出兵(文禄の役)の際、朝鮮の地で戦病死しました。

その秀勝とお江の間に生まれた完子がのちに九条家に嫁ぎ、その子孫が現在の皇室につながっています。

あるいは、その完子が生まれたのが、ここだったかもしれませんね。


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石碑の横に設置された説明板です。

聚楽第図屏風や広島藩浅野家の山城聚楽などが記載された、実に内容の濃い説明板です。


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石碑の側面には、「平安宮内裏蘭林坊跡」と刻まれています。

聚楽第跡はどこへ行っても平安宮内裏跡とセットですね。


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ずっと北東に移って、ハローワーク西陣前の石碑から北東約200mのところに、「聚楽城 武家地 上杉景勝邸跡」と刻まれた石碑があります。


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その説明板です。

このあたりの地名は江戸初期から「弾正町」と言い、その由来は上杉弾正大弼から来たものと伝わるそうです。


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石碑の側面には、「此附近 応仁の乱ゆかりの地 細川勝久屋敷跡」とあります。

さすが京都は1箇所に複数の歴史がつまっていますね。


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上杉景勝邸跡からさらに北東約200のところにある晴明神社の鳥居前に、「千利休居士聚楽屋敷趾」と刻まれた石碑があります。

秀吉が聚楽第を築くと、千利休もここに屋敷を構えました。

また、ここは利休終焉の地でもあり、ここで自害したと伝わります。


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「聚楽古城図」によれば、他にも豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、黒田官兵衛孝高、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政など、秀吉配下にあって特に信頼されていた大名の屋敷が建ち並んでいたようです。

いわゆる大名屋敷町の先駆けと言っていいでしょうね。

天正16414日(158859日)には、正親町上皇(第106代天皇)と後陽成天皇(第107代天皇)の行幸を迎えています。

その後、秀吉は豊臣の家督と関白職と秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となり、自身は伏見城に移りました。

ところが、翌年に実子の拾丸(豊臣秀頼)が産まれたことで状況は一変。

その2年後に秀次に謀反の疑いが持ち上がり、やがて切腹に追いやられます。

これに連座して秀次の家臣たちも処分され、39名の妻子らも全員斬首となりました。

その後、秀吉は秀次の痕跡を消し去るために、聚楽第を徹底的に破壊してしまったため、聚楽第の遺構は後世に残らず、詳細はわかっていません。

秀吉が築き、秀吉が破壊した聚楽第。

まさに「幻の城」です。


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伏見城、聚楽第と、秀吉が京都に築いた幻の城をめぐってきましたが、もう1ヶ所、令和2年(2020年)に遺構が発掘されて話題になった幻の城、京都新城がありますね。

次稿はその跡地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2022-03-25 18:32 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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