秀吉が最後に築いた幻の城、京都新城。
前稿、前々稿で豊臣秀吉が京都に築いた幻の城、伏見城と聚楽第をめぐってきましたが、京都にはもうひとつ、まさに「幻の城」と言っていい秀吉の城がありました。
令和2年(2020年)5月、発掘調査中だった京都御苑内の京都仙洞御所で、秀吉が最晩年に築いたとされる城の石垣の一部が出土し、大きな話題となっていましたね。
後世に「京都新城」と呼ばれる城です。
その発掘現場は一般公開されていないので、今回は仙洞御所外周を歩きます。

京都仙洞御所正門です。
仙洞御所は天皇を退位した上皇、法皇の御所で、京都御所の南東にあります。
京都仙洞御所が築かれたのは江戸時代初期の寛永4年(1627年)、後水尾天皇(第108代天皇)が譲位された際に造営されたもので、このとき、秀吉の京都新城は解体されたと伝わります。

京都新城は秀吉の晩年にあたる慶長2年(1597年)正月末から工事が始まり、同年9月に完成しました。
9月26日に秀吉とその嫡子の秀頼が、徳川家康や諸大名を従えて城に入城。
28日に天皇の内裏へ参内し、京都新城で秀頼が元服したと伝わります。
しかし、その後、秀吉は参内の宿所として使用したのみで、ついに移居することはなく、入城から1年に満たない慶長3年8月18日(1598年9月18日)、伏見城にてその生涯を終えました。

ここを訪れたのは令和3年(2021年)4月11日。
この年は桜の開花が早く、京都の桜はほとんど3月中に満開を迎えていたのですが、少しだけ葉桜が残っていました。

京都新城は東西400m、南北800mの規模だったといわれます。
現在の仙洞御所は東西約250m、南北約350mほどですから、これを遥かに凌ぐ規模だったんですね。

北西には、御所があります。

こちらは御所南東の建春門。

建春門から見た仙洞御所。
目と鼻の先です。
こんな場所に、御所をも凌駕する規模の城を秀吉は築いたんですね。
そういえば、聚楽第も、かつての大内裏跡に築いていたことを思えば、秀吉は、天皇家を強く意識し、天皇家と深いパイプを持って代々豊臣家が関白職を世襲していこうと考えていたのでしょうね。
ここ京都新城は、そのために築かれた城だったのかと。

仙洞御所内は、申し込めば見学できます。

しかし、この日は訪れた時間が遅かったこともあり、申し込みは締め切られていました。
まあ、見学できるのは庭園だけで、石垣の発掘現場は見学ルートには入っていないので、別にいいっか。


ちなみに、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれていたそうで、その後、新城、秀頼卿御城、京の城などと呼ばれたそうです。
秀吉の死後、秀頼は京都新城には住まず、秀吉の遺命により防御力の優れた大坂城に移りました。
その翌年の慶長4年(1599年)9月、淀殿と対立した秀吉の正室・高台院(おね・ねね・北政所)が大坂城を退去し、ここ京都新城に移り住みました。
そのため、以後、高台院屋敷と呼ばれたそうです。
その高台院が亡くなったのが、ここ高台院屋敷でした。

高台院が死去した3年後に仙洞御所の造営が始まり、京都新城は跡形もなく解体されたと伝わります。
高台院の存命中も、京都新城は櫓や塀を破却するなど、徐々に縮小されていたようです。
家康と高台院の関係は良好だったといいますが、とは言え、豊臣恩顧の大名に影響力を持っていた高台院ですから、やはり、微妙な立場だったのでしょうね。

さて、伏見城、聚楽第、そして京都新城と、秀吉が京都に築いた3つの城跡をめぐってきました。
考えてみれば、秀吉の築いたこれらの城は、みんな謎に包まれています。
大坂城も、秀吉の大坂城はのちの徳川時代の大坂城の地底深くに葬られていますしね。
豊臣政権時代の遺産は、徳川政権時代には目障りだったということなのかもしれません(聚楽第は秀吉自らが葬り去りましたが)。
一方で、家康が築いた二条城は今では世界遺産。
家康を祀った日光東照宮も世界遺産。
秀吉の築いた城は、それらをはるかに凌ぐ豪華絢爛な城だったといいますから、そのどれかひとつでも残っていたら、間違いなく世界遺産だったでしょうにね。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢
秀吉の辞世の句ですが、まさに露のように消えてしまった秀吉の城。
夢のまた夢、幻の城です。
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by sakanoueno-kumo | 2022-03-27 14:23 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)