豊国廟の麓に祀られた豊臣国松と松の丸殿の供養塔。
前稿で阿弥陀ヶ峰の山頂にある豊臣秀吉の墓をお参りしましたが、その参道の西麓に、秀吉の孫の豊臣国松と秀吉の愛妾・松の丸殿の供養塔があります。
かつて豊国社の社殿があったと伝わる太閤坦の一角に、玉垣で囲われた五輪塔が見えます。
近づいてみると、大小ふたつの五輪塔があります。
大きい方の五輪塔の前にある花立てには、近江源氏佐々木氏の家紋・四ツ目結があります。
ということは、こちらが松の丸殿の供養塔ですね。
松の丸殿は佐々木一族の嫡流で近江守護職を務めた名門・京極氏の出で、名を龍子といいました。
龍子は京極高吉と京極マリアの間に生まれ、あの淀殿・初・江の浅井三姉妹とは従姉妹にあたります。
初めは若狭守護の名家・武田元明に嫁いで2男1女を設けたものの、本能寺の変ののち、弟(もしくは兄)の京極高次と夫の元明が明智光秀の味方につき、山崎の戦いで元明が落命し、捕らえられた龍子は、その美貌が秀吉の目に止まり、側室に迎え入れられることになります。
一説には、このとき龍子の二人の息子たちは、秀吉の手によって処刑されたともいわれています(異説あり)。
元明と龍子は非常に仲睦まじい夫婦だったともいわれ、それでも仇である秀吉の側室になる道を選んだのは、弟・高次の生命を守るためだったともいわれ、京極家を守るための決断だったのでしょう。
秀吉の側室となってからは、西の丸殿や松の丸殿と呼ばれました。
秀吉の彼女に対する寵愛ぶりは淀殿に勝るとも劣らなかったようで、小田原城や名護屋城に連れていったりしていました。
秀吉が逝去する5か月前の醍醐の花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿と松の丸殿の間で争いがあったという話は有名ですね。
記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた、前田利家の正室・まつが続きましたが、正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は豊臣秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えました。
ところが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。
酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになったと伝わります。
女の争い・・・おお、こわっ!
五輪塔には、「佐々木京極女為二世安楽也」と刻まれています。
五輪塔の前の石灯篭にも、四ツ目結の家紋があります。
ということは、隣の小さい五輪塔が、豊臣国松の供養塔ということになりますね。
国松は秀吉の継嗣・豊臣秀頼と側室・伊茶の間に生まれた男児です。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際に、秀頼と淀殿が陥落する大坂城内の山里曲輪隅櫓で自刃して果てたというのはよく知られていますが、その秀頼の息子である国松も、乳母と共に城を落ちる途中に徳川方の捜索により捕らえられ、市中引き回しのあと京の六条河原で田中六郎左衛門と長宗我部盛親と共に斬首されました。
国松の年齢は不詳ですが、秀頼が文禄2年(1593年)生まれの23歳だったことから考えれば、国松は大きくとも7~8歳までだったでしょう。
それが戦国の世のならいとはいえ、哀れな最期を遂げた幼い国松に人々の同情が集まったでしょうし、そんな酷い仕打ちをした徳川新政権が当時の庶民の反感を買ったであろうことは想像に難しくありません。
そんな背景から生まれたのか、国松の生存説がいくつか伝わっており、たとえば、側近に護られた国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われたのち、豊後国日出藩に身を寄せていたとされます。
当時の日出藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でした。
延俊は国松を城内で匿い、頃合いを見計らって自身の四男・木下延由(延次)として幕府に届け出たとも伝えられます。
その根拠として、延由の位牌に「国松」という文字が刻まれているというのですが、いかがなものでしょう。
実際の延由は、のちに5千石の旗本となっています。
他の説としては、天草四郎が国松だったという伝承もあります。
「島原の乱」は、豊臣家が起こした最後の反乱だったという面白い仮設ですが、この説についていえば、どう考えても年齢が合わないので、邪説と考えていいでしょう。
その天草四郎にもまた生存説がありますから、キリがありません(笑)。
それだけ、国松に生きていてほしいと願う当時の人々の思いから生まれた伝承だったのかもしれませんね。
花立てには、豊臣家の家紋「五七桐」があります。
そんな国松の供養塔が、なぜ松の丸殿の供養塔と並んで建てられているのか。
その理由は、処刑された国松の遺体を引き取り、京都寺町の誓願寺に埋葬したのが、他ならぬ松の丸殿だったそうです。
国松の祖母にあたる淀殿とは、側室の序列で争ったとはいえ、元は従姉妹ですからね。
その結末にはきっと心を痛めたのでしょう。
のちに松の丸殿は自身の墓も国松の墓と並んで誓願寺に建てさせました。
時代は下って明治に入り、新京極の開設など近辺の環境悪化を理由に、明治44年(1911年)、秀吉ゆかりの地であるこの場所に改葬したそうです。
二人の五輪塔の横には、その改葬の経緯を記した石碑があります。
碑文は「京都市いしぶみデータベース」より引用。
漏世公子及寿芳夫人遷墓記
公子名国松右大臣豊臣公之子也生母成田氏大阪城陥公薨公子年甫八歳
與傅田中六郎左衛門及乳母某匿伏見徳川家康捕之乳母固称己子請命不
許遂歿於六条磧六郎殉焉実元和元年五月二十三日也寿芳夫人収葬之於
京都誓願寺中法謚曰漏世院雲山智西夫人名龍子京極高吉女美而貞淑被
寵於豊国公寛永十一年九月朔卒謚曰寿芳院殿月晃盛久葬於公子墓側蓋
従其志也夫大阪之亡也諸侯皆遺義趨利無顧旧恩者而夫人独以一婦人不
屈威武能尽礼於公子可謂義烈矣明治革新後商買多移居夾墓余深憂其地
【「買」字ママ】」
陜隘囂塵祀事難行且懼受狂暴慢侮請官遷墓於東山豊国公廟域嘱京都内
貴甚三郎君董督其事君素好義常傷公子不以寿終而欽夫人之節烈也喜諾
之尽力経営今茲辛亥十月四日備礼遷新壙於是英霊永得所安而祭祀可行
無復受侮之虞也余因刻其由於石以建墓左云
明治四十四年十月
高吉十一世孫子爵京極高徳謹撰 山田得多敬書
漏世公子及寿芳夫人遷墓碑 碑文の大意
漏世公子の名は国松,右大臣豊臣秀頼公の子である。生母は成田氏。大坂夏の陣で大坂城が陥落し、秀頼公が没した時漏世公子はやっと八歳であった。世話係の田中六郎左衛門および乳母と大坂城から脱出した。伏見に潜伏したが徳川家康に捕らえられ、乳母は自分の子だといつわったが許されず、京都の六条河原で六郎左衛門といっしょに処刑された。元和元年5月23日のことであった。寿芳夫人は国松の遺骸をもらいうけ京都の誓願寺に葬った。法名は漏世院雲山智西と付けられた。寿芳夫人は名は龍子。京極高吉の娘である。美しくしとやかな人がらで、豊臣秀吉公に寵愛された。寛永11年9月1日に逝去。法名を寿芳院殿月晃盛久と付けられ、漏世公子の墓の隣に葬られた。その遺志によるものであろう。豊臣家の滅亡にあたり秀吉恩顧の大名はみな恩義を忘れ一身の利益を求め、旧恩をかえりみる者はいなかった。しかし寿芳夫人は女性の身で徳川家の力に屈せず、礼遇をもって公子に尽した。まことに義を貫いた者というべきであろう。 明治維新後、(新京極が開かれ)商人が墓のまわりに集まってきた。わたし(筆者京極高徳)は墓地が狭く俗塵にまみれ法要も行われがたく、また墓に無礼の行為が行われるのではないかと心配し、官の許可を受け東山豊国廟内に移そうと思い、京都の内貴甚三郎氏に事業の監督を依頼した。内貴氏は義に篤い人で、常に漏世公子が幼くして世を去ったことを悲しみ、また寿芳夫人の節義を尊敬している人物だったので喜んで承知し力を尽くしてくれた。
このたび辛亥(明治44年)10月4日遷墓式を挙行した。これで両人の霊は安住の所を得て、安心して法事を行うことができ、無礼に遭う恐れもなくなった。遷墓の経緯を石に刻し墓のかたわらに建てるものである。
かつて自身が生んだ二人の息子を秀吉によって処刑されたと伝わる松の丸殿ですが、その秀吉の孫の国松の菩提を生涯かけて弔った彼女は、きっと、とても慈愛に満ちた女性だったのでしょう。
豊国廟を訪れた際には、山頂の秀吉の墓だけではなく、この松の丸殿と国松の供養塔にも手を合わせて帰るべきでしょうね。
さて、豊国廟の墓参りのあとは、秀吉を祀る豊国神社に参拝します。
次稿につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-04-02 21:43 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)