足利義輝邸跡・斯波氏武衛陣。
前稿で織田信長が足利義昭のために築いた旧二条城跡の石碑を紹介しましたが、そのすぐ近くに、「此付近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」と刻まれた石碑と説明板があります。
「武衛陣」とは、室町幕府管領斯波氏の邸宅のことです。
斯波氏は、室町幕府において将軍に次ぐ役職である管領を世襲していた一族であり、他の管領家である細川氏や畠山氏とともに、三管領と呼ばれる名門でした。
この地に邸宅を構えた始まりは、室町幕府3代将軍・足利義満のときに管領を務めた斯波義将からでした。
武衛陣の名は、義将以降の斯波氏歴代当主が左兵衛督や左兵衛佐に任じられたため、同家を兵衛官の唐名である武衛に因んで武衛家と呼ぶようになり、そこから「武衛家の邸宅(陣)」すなわち「武衛陣」と呼称されるようになったそうです。
説明板によると、その後、応仁の乱の戦火によって屋敷は焼失したそうです。
乱後は戦災による損壊の修復を行い、武衛家の本邸として引き続き使用され、12代当主の斯波義寛の時代頃まで武衛家の本邸として使用されたようですが、肝心の武衛家自体が在京を断念し、領国であった尾張国の清州城へ本拠を移すと、やがて放棄されてしまったようです。
時代は下って、室町幕府13代将軍・足利義輝が、幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築き、政務を執りました。
この義輝時代の将軍御所を「二条御所武衛陣」と呼びます。
しかし、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好長逸、三好政康、岩成友通ら三好三人衆と宿将の松永久通らが、主君の三好義継とともに1万の大軍を率いて、ここ二条御所武衛陣を襲撃しました。
午前8時ごろだったといいます。
これに対し、義輝は果敢に抗戦しますが、このとき二条御所武衛陣には寡少の兵しかおらず、しばらくして力尽き、ついに壮絶な死を遂げます。
享年30。
義輝は事前に不穏な雰囲気を察知していたようで、『足利季世記』によると、「京公方様御館ノ四方ニ深堀、高塁、長関堅固ノ御造作」にかかっていたといいますが、それが完成する前に殺されてしまい、屋敷も焼失してしまいました。
その4年後、織田信長がその跡地に、義輝の弟で15代将軍となった足利義昭の御所を築いたわけです。
説明板に載せられたマップです。
赤い点線のところが、現在、「武衛陣町」という地名だそうです。
義昭の将軍御所だった旧二条城が解体されてからは、この地に将軍や大名の邸宅が築かれることはなかったようですが、400年経った今でも「武衛陣町」という地名が残っているということから、かつてこの地に武衛陣が存在していたということが、ずっと語り継がれてきたことを教えてくれているといえます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-04-23 22:25 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)