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鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その1 ~木曾義仲の滅亡~

 鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その1 ~木曾義仲の滅亡~_e0158128_20043762.jpg寿永2年(1183年)1119日、源義仲軍が後白河法皇の御所となっていた法住寺殿を襲撃しました。法皇方は奮戦するも、百戦錬磨の義仲軍に敵うはずもなく、大敗を喫します(法住寺合戦)。このクーデターを成功させた義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉し、前関白の松殿(藤原)基房と手を組んで国政を掌握しました。121日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を握り、1210日には源頼朝追討命令が出され、さらに翌寿永3年(1184年)正月11日、義仲は自らを征東大将軍に任命させ、形式的には官軍の体裁を整えました。しかし、監禁されている後白河法皇の命令が義仲による強制であることは明白で、この強引なクーデターは逆に多くの武士たちの反発を招き、離反者を増やす結果となります。


鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その1 ~木曾義仲の滅亡~_e0158128_20044046.jpg後白河法皇からの要請を受けて源頼朝が派遣した源義経軍は、当初はわずか5600ほどの小規模な軍勢で、法住寺合戦が起こるまでは近江で傍観しているだけでしたが、法住寺合戦後、義仲の孤立を見た伊勢や伊賀の多くの武士たちが義経軍に合流し、一気に軍勢が膨れ上がります。法住寺合戦とその後の強引なクーデターが、逆に義仲の墓穴を掘るかたちとなりました。また、頼朝が派遣した源範頼率いる援軍も義経軍と合流。正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始しました。一方の義仲は、義経方の状況が把握できておらず、義経軍が少数との情報を受けて、北陸への撤退を取りやめ、迎撃を決意します。ドラマでは、義経軍が少数だという嘘の情報を義経が流したという設定でしたね。あるいはそうだったかもしれません。


宇治から京を目指した義経は、義仲方の志田義弘の軍勢を宇治川合戦で蹴散らし、たちまち京へ進攻。後白河法皇を救出します。その先陣は、前年暮れに上総広常を殺害したばかりの梶原景時でした。義仲は法皇を拉致して北陸へ下向しようとするも失敗し、敗走の途中、近江国粟津(現滋賀県大津市)で討死します。享年31入京からわずか半年余り、法住寺合戦で後白河法皇を幽閉してから2ヵ月後のことでした。


鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その1 ~木曾義仲の滅亡~_e0158128_21341890.jpg『平家物語』によると、近江国粟津に着いたときの義仲の軍勢は、今井兼平、巴御前、手塚光盛、手塚別当、そして義仲のわずか5だけとなっていたといいます。やがて手塚光盛と手塚別当の2人も討死し、巴御前はであることを理由に落ち延びるよう促されますが、巴が落ちようとしなかったため、義仲は「最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と言い放ち、これを聞いた巴は、最後の奉公と言って敵将の恩田八郎の首を斬り、その後、鎧兜を脱ぎ捨てて落ち延びたといいます。最後に残った義仲と今井兼平の2人は、自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死。これを見た兼平も、「日本一の剛の者の自害の仕方を見よ」と叫び、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれて絶命したといいます。さすがにこれはドラマでは描けなかったでしょうが、義仲が顔面に矢を射られたという最期は採用されていましたね。


 『吾妻鏡』によると、義仲追討の報せは、正月27日に鎌倉の頼朝の元に届きました。範頼、義経、安田義定、一条忠頼らがそれぞれ飛脚を送りますが、彼らの報告はどれも要領を得ないものだったのに対し、梶原景時の報告だけが、討ち取った者、捕虜とした者の名簿を記すなど整然とした報告書だったといいます。ドラマでも描かれていましたね。この報告書にまつわる従来の逸話では、自身の手柄のことしか書かない義経と、正確な報告書を記す景時の間に軋轢が生まれたとされるのですが、ドラマでの義経と景時の間には、まだ不和は生じていません。


 今回は義仲の滅亡から一気に一の谷の戦いまでいっちゃいましたね。長くなっちゃったので、本稿はここまで。一の谷の戦いは明日、「その2」にて。



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by sakanoueno-kumo | 2022-04-25 21:36 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(9)  

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Commented by kumikokumyon at 2022-04-26 10:49
巴御前を抱っこしてるかわいい絵には吹き出しました、あのあたりの演出も三谷さん流ですね!木曽義仲のラストも衝撃的でした。
この頃からしっかり梶原景時の嫉妬は始まていたのではないでしょうか?そしてそれがいつしか恨みに・・・・
義経にあの俳優はどないなもんかと思っていましたがご指摘のように演技抜群ですね!義経の出っ歯を意識しているのか前歯を強調するような口の開け方しとります。けど坂落としが・・・明日をお待ちします(笑)
Commented by heitaroh at 2022-04-26 16:05
「やーやー我こそは」って言わないんですね。
突撃していく騎馬武者や、相手構わぬ一斉射撃など、これでいいのなかと。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-04-26 19:43
> kumikokumyonさん

>巴御前を抱っこしてるかわいい絵

ごめんなさい。
それ、わからないです(苦笑)。
そんなシーン、ありましたっけ?
ちゃんと見てなかったのか、覚えてないんですけど・・・。

>この頃からしっかり梶原景時の嫉妬は始まていたのではないでしょうか?

たしかに、嫉妬心は抱いているようでしたが、今回の景時はそんな自身の醜い感情は押し殺して義経の才能を素直に認めることができるストイックな人格者のようですよね。
なので、これまでのような確執は生まれないように思うのですが・・・。
今後の展開が楽しみです。

菅田くん、いいですね~。
彼のスゴイのは、やはりあの目力でしょう。
素人が知ったような口をきくようですが、目の演技が上手い俳優さんは、やはり引き込まれますね。
彼はいずれ大河の主役をやる人だと思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-04-26 19:54
> heitarohさん

たしかにそうですが、わたしが知る限り、いままでのこの時代の大河もだいたいこうですよね。
『平清盛』とときも『義経』のときも。
昔の『草燃える』のときは、「やーやー我こそは」ってやってたんでしょうか?
わたし、観てないもので・・・。

で、その「やーやー我こそは」についてですが、このルールって、どこまで守られていたんでしょうね。
だって、義経の戦いって、伝承通りだとすれば、壇之浦以外は基本的に奇襲ですよね。
三草山の戦いなんて寝込みを襲う夜襲ですし。
奇襲で「やーやー我こそは」なんてやってたら、それって奇襲になるのかなぁと。
この時代より前の保元の乱のときもそうですが、始まりは夜襲からですし、本戦も、鴨川を挟んで弓矢が乱れ飛ぶ乱戦だったといいますから、川の向こうとこっちで「やーやー我こそは」なんてやってたのかなぁと。
ずっと疑問に思っています。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-04-29 21:38
> kumikokumyonさん

今頃ですが、巴御前を抱っこしてるかわいい絵、わかりした!
和田義盛の書状の挿絵のことですね?
あれ、抱っこしてたんですね?
馬乗りになっているように見えましたが(笑)。
Commented by heitaroh at 2022-05-02 14:36
奇襲してから言ってたんじゃないですか。
言わないと、誰が誰を討ち取ったかわからないでしょうし。
ご承知と思いますが、あれは、敵に向かって言ってたわけではなく、どこの住人でどういう身分の者ですよということを味方に宣言しているわけで。
だから、蒙古襲来の時も、それを言って、宣言中に射殺されたりしてますよね。
ちなみに、私も、リアルタイムで見たわけではないのですが、緒形拳が弁慶をやった源義経では、言ってたみたいです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-02 18:56
> heitarohさん

その蒙古襲来のときの伝承に引きずられているような気がしてならないんですよね。
「やあやあ我こそは」と言っている間に討たれて多くの被害を被り、これをきっかけに日本でも集団戦の戦い方が変わった、と。
でも、こういう伝承って、基本、話盛ってるじゃないですか。
たしかに、蒙古襲来のときに蒙古軍と日本軍の明らかな戦術の違いにカルチャーショックを受けたという話は事実なんでしょうけど、名乗りを宣言している間に射抜かれたって話は、どこまで実話なのかなぁと。
Commented by heitaroh at 2022-05-13 19:01
いや、ですから、あれは、手柄を立てたときに、「あいつじゃない」とか言われないための証拠作りですよ。
「自分は神戸市OO町在住の坂之上の雲の助である。先祖は薩摩藩の上級武士の名門である」と言っておけば、周囲にも、「ああ、今戦っているのは坂之上さんだな」とわかるわけで。
彼らは民族とか自由などのために戦っているわけではなく、手柄のために戦っているわけで、であれば、誰が誰を討ち取ったということをはっきりさせておくのはテストに名前を書くと同じくらい外せないことだったはずです。
と、私もそれほど調べて言っているわけではないのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-14 12:40
> heitarohさん

それは理解しているつもりなんですが、いつもいつもそれやっていたのかなぁ、と。
当時の合戦は、何日の何時何分にどこどこで合戦を始めようという約束のもとに行われるという、戦争というより試合のようなものだったとよく言われますが、そんな騎馬戦の一騎打ちのような合戦ならわかるんですけどね。
ところが、義経の戦いはそうじゃなかったわけで、弓矢がビュンビュン飛び交っているなかで、悠長に名乗りを上げてる間に射抜かれて死んじゃったら、いくらなんでもただの馬鹿ですよ。
まあ、私も詳しいわけではないのですが。
ただ、今回の大河の合戦シーンでも、そもそも崖落としはなかったとか、梶原景時は実は義経軍にいなかったとか、史実との相違にツッコミをいれている歴史家さんの声はたくさんありましたが、そこに苦言を呈している学者さんの意見はいまのところ見ていません。

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