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鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その2 ~一の谷の戦い~

 「その1」のつづきです。

 木曾義仲を倒した源義経軍は、その喜びに浸る間もなく、寿永3年(1184年)正月29日、平家追討に出陣します。一時は西国に落ちていた平家軍でしたが、正月8日に先遣隊が福原を奪回し、26日には安徳天皇を擁する本隊も福原に入り、2月にも入京するのではないかという噂も立っていました。当初、朝廷内では、武力でこれを撃退するか、三種の神器の安全を最優先して和平交渉を行うかで意見が真っ二つに分かれていましたが、最終的には後白河法皇の強い意志もあって強硬論となり、義経軍に追討の命が下されます。


 『吾妻鏡』によると、25日に摂津国に到着した源範頼、義経ら源氏軍は、7日卯の刻(午前6時頃)を開戦と定めて二手に分かれました。大手の範頼軍は56千騎搦手の義経軍は2万騎。『吾妻鏡』の記述を信じれば、合計7万騎の大軍が組織されたといいますが、九条兼実の日記『玉葉』によると、平家軍2万騎に対して源氏軍は23千騎と記されています。おそらく、こっちの方が正しい数字に近いでしょうね。九条兼実は圧倒的に平家が優勢と見て、「天下の事大略分明」悲観的に記しています。


 鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その2 ~一の谷の戦い~_e0158128_20044046.jpg平家が陣を布く福原は、南は瀬戸内海、北は六甲山脈が横たわり、東の生田の森と西の一の谷に山陽道を遮断するかたちで大規模な城郭が築かれ、守り固められていました。そこで源氏軍は兵を二手に分け、大手の範頼軍は大阪湾に出て山陽道を西に進み、搦手の義経軍は丹波から播磨へと内陸を進み、福原西の一の谷に向かう計画を立てます。丹波路を進む義経軍は、三草山平資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破し、その勢いで山道を進撃。その後、義経は軍を二分し、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて山の手の夢野口に向かわせ、義経自身はわずか70を率いて山中の難路を進み、一ノ谷陣営の裏手にある断崖絶壁の上に出ました。そして、有名な「鵯越の逆落とし」を強行して山側に無警戒だった平家の意表を突き、壊滅させるんですね。


 『平家物語』によると、義経は2を崖から落として、1頭は足を挫いて倒れるも、もう1頭は無事に駆け下ったのを見て、逆落としの決行を決断し、自ら先陣となって駆け下ったといいます。これを見た武者たちも、義経に続きました。劇中、畠山重忠「馬を背負ってでも下りてみせまする。末代までの語り草になりそうです」と語っていましたが、『平家物語』では、「馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った」とあります。いきなり上から奇襲をかけられた平家軍は大混乱となり、我先にと海へ逃げ出したといいます。


鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その2 ~一の谷の戦い~_e0158128_20313133.jpg


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 馬を背負って崖を降る畠山重忠。ちゃんと末代までの語り草になってますよー!(笑)


 また、『吾妻鏡』では、「源九郎は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70を率いて一の谷の背後の山から奇襲をかけたと伝えています。これが、『平家物語』でいう「逆落とし」と解釈されています。ちなみに、『吾妻鏡』では、畠山重忠梶原景時は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいません。


 ところが、実は一次史料には、義経が「鵯越」を通ったことも、「逆落とし」の奇襲のことも記されていません。『玉葉』によると、「義経軍はまず丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした」とあり、義経が一ノ谷を攻め落としたことは記していますが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていません。また、『玉葉』によると、「大手の範頼軍は浜より福原に寄せ、多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした」とあります。実際に「逆落とし」はあったのか、なかったのか・・・。


 わたし(ブログ主)は神戸市民なので、ここに出てくる地名はすべてわかります。現在残る地名と当時の地名が必ずしも同じ場所とは限りませんが、現在の鵯越は神戸市北区の山間部に位置し、一の谷の背後にある山とは直線距離にして8kmほど離れています。一の谷の背後の崖が「鵯越」であるという『平家物語』『吾妻鏡』の記述とは、現在の地名は合致しません。この地理的矛盾は、歴史家さんたちの間でも当然昔から議論されていて、義経が鵯越から進路を変更し、一の谷背後の鉢伏山、鉄拐山迂回したのではないか、など、様々な見解があるようです。しかし、鵯越から鉢伏山、鉄拐山に抜ける道は確認されていません。


 歴史家の呉座勇一氏の著書『頼朝と義時』によると、これらは義経が急峻な崖を降ったことを前提にした議論だとした上で、そもそも、『平家物語』は一の谷に平家の本陣があったかのように描いていますが、平家の大本営は当然、福原にあったはずで、西の一の谷と東の生田の森には福原防衛のための城郭(砦)があっただけに過ぎず、その片方の砦を攻略するだけのために、搦手軍の大将である義経が危険な奇襲をかけるなど、非現実的だと説かれています。たしかにそのとおりです。


 そこで気が付くのが、『玉葉』にある、「多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした」という記述。現在の神戸の地名でいえば、夢野口鵯越の南方にあたります。この多田行綱が通った道こそが、「鵯越」だったのではないかと。これは、土地勘のある人なら十分にうなずける見解ですね。『平家物語』は、土肥実平が搦手軍の主力を率いて山陽道を東に進み、一の谷を攻撃したとしていますが、呉座勇一氏によると、実際にはこの方面の軍を指揮したのが義経で、義経が西の一の谷を、範頼が東の生田の森を攻めて平家の注意を引き付けている最中に、多田行綱が鵯越を突破して平家の大本営のある福原を衝き、行綱軍は少数でしたが、背後に敵を抱えた平家軍は動揺し、その隙を見逃さずに義経が一の谷を攻略した。これが、一の谷の戦いの実像だったのではないかと。なるほど、うなずけます。


 鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その2 ~一の谷の戦い~_e0158128_18315745.jpgもうひとつ、平家軍が大敗を喫した要因は、ドラマでも描かれていたように、後白河法皇から平家に出された休戦命令でした。法皇は平家軍に和平使の派遣を予告し、平家を油断させたとこを義経軍に攻撃させました。いわば騙し討ちですね。合戦後、平宗盛「法皇から和平の申し入れがあり、使者を待っているところを源氏軍に襲われた。休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」恨み言を述べ立てています。ドラマでは義経が後白河法皇に騙し討ち策を献策するという設定でしたね。これが本当に平家を陥れるための謀略だったとすれば、事前に法皇と義経らとの間に打ち合わせがあった可能性はあります。この法皇の謀略が源氏軍の勝利の最大の要因だったとする見方も少なくありません。法皇は何が何でも平家を入京させたくなかったのでしょう。三種の神器を擁した安徳天皇が入京することで、法皇が擁立した後鳥羽天皇の皇位が否定され、自身の院政が崩壊することを恐れていたわけです。


 ドラマでは「逆落とし」そのものは描かれませんでしたね。まあ、崖を降りるなんて危ないしね(笑)。平成17年(2005年)の大河ドラマ『義経』のときの逆落としのシーンは、どう見てもただの緩やかな坂道でしたしね(笑)。今ならCGで崖を降るシーンも描けそうですが、お金かけて嘘くさい映像を作るよりも、あの方が良かったのかもしれません。それにしても菅田義経、いいですね~。あのギラギラした目。あのマキャベリストぶり。あの目が頼朝と不和になったとき、どうなってしまうのか楽しみです。


 「八幡大菩薩の化身じゃ」


 戦場に舞う義経を見た梶原景時が言った台詞ですが、本作の梶原景時と義経の関係も今までにない設定で面白いですね。義経の才能に嫉妬心を抱きながらも、その才能を認めることができる人格者として描かれている本作の梶原景時。これまでの物語のように、景時の讒言によって義経は頼朝から信頼を失っていくという設定ではなさそうです。おそらく、ここから数話は義経が中心の話となるはず。今後の展開が楽しみです。

 


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by sakanoueno-kumo | 2022-04-26 20:37 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(4)  

Commented by kumikokumyon at 2022-04-28 08:01
嘘くさくはありますが、義経ファンのわたくしといたしましては鹿の糞で逆落としを終わらせて欲しくなかった~(汗)
イケメンの畠山重忠が馬を担ぐとこも見たかった~(笑)
戦略的に解説して頂くと今まで数十年夢に描いていた図が崩れましたがあり得ない設定であることも理解できました。

平敦盛や那須与一関連のお話は三谷さん好きそうじゃないので出てこないかもしれませんね。5月8日の壇ノ浦の合戦が楽しみです!!
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-04-28 20:19
> kumikokumyonさん

あのシュッとしたイケメン重忠では、どう見ても馬は担げそうにないですね(笑)。
そうですね。
三谷さんが好きじゃないというより、那須与一や敦盛の話をするとしたら、どうしても本筋から横道にそれちゃいますからね。
本作では弁慶ですら影が薄いですもんね。
三谷さんは何かのインタビューで語っていましたが、頼朝の生きている間は全部プロローグに過ぎず、本当の物語は頼朝の死後にはじまるのだとか。
われわれはまだプロローグを観さされているそうです(汗)。
長い序章ですね~。
Commented by nonbirimeguri at 2022-05-01 00:59 x
最近ブログ記事を読ませて頂いております。一の谷の話が出ていたので、つい書き込みさせて頂きました(笑)
当時の一の谷は現在の鵯越の南側、当時大輪田泊だった西側から長田区南部だったのではと思っております。三草山の戦後、清盛に縁があるかもしれない烏原古道を経て鵯越へ・・・等と、素人ながら想像しながら地元の歴史巡りは楽しいものです。

今大河の主役はあくまで「鎌倉殿の13人」。とはいえ、壇ノ浦後の頼朝と義経の行方も気になりますね。

Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-01 01:46
> nonbirimeguriさん

コメントありがとうございます。
たしかに、現在の地名と当時の地名が必ずしも同じ場所とは限りませんからね。
ただ、わたしは、やはり一の谷は今の一の谷あたりだったんじゃないかと思っています。
ご存じのとおり、今の一の谷はJR須磨駅と塩屋駅の間で、海と山が最も接近する場所ですよね。
現在でも、海と山の間は山陽電鉄とJRと国道2号線だけが通る狭い陸地で、だからこそ、平家はここに砦を築いて西の守りとした。
百人一首に出てくる源兼昌の
「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」
の須磨の関守は、おそらく一の谷あたりにあったんじゃないかと想像しています。
明治に入る前までは、今の一の谷あたりを境に、東は摂津国、西は播磨国でしたしね。
地形的に、昔からあのあたりは重要な場所だったんじゃないかと。
もし、当時と今とで場所が違うとしたら、「鵯越」のい方なんじゃいなかと
まあ、いろんな想像が膨らみますが。

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