松永久秀終焉の地・信貴山城。 その1 <朝護孫子寺>
大和国と河内国の国境にある生駒山系に属する標高433mの信貴山山上に、かつて信貴山城がありました。
信貴山城は、戦国の三梟雄のひとりとして知られる松永久秀が自刃した城として有名ですね。
今回は、その信貴山城跡を攻めます。

信貴山城跡への登山口は、山腹の朝護孫子寺内にあります。
上の写真はその参道にある巨大な張り子の虎「世界一福寅」で、向こうに見えるのが本堂です。

伝承によると、敏達天皇11年(582年)に寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に、聖徳太子が物部守屋を討伐するためにこの山に来た際、頭上に毘沙門天が出現して必勝の秘法を授けられて勝利したことから、用明天皇2年(587年)7月3日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として朝護孫子寺を創建し、「信ずべき貴ぶべき山」として「信貴山」と名付けたと伝わります。
以来、信貴山の毘沙門天は虎にゆかりのある福の神として、寅年、寅の日を縁日と定めて大法要が行われています。
虎を守り神とすることから、阪神タイガースの選手やファンが必勝祈願に訪れる寺としても知られていますね。

本堂にズーム。
せっかくなので、朝護孫子寺を参拝してから城跡を目指しましょう。

朝護孫子寺の絵図です。
広大な寺院です。

参道の向こうに見える山が信貴山です。

ここにも小さい張り子の虎が。

赤門をくぐります。

正面に信貴山が見えます。

ここを訪れたのは令和2年(2020年)11月29日。
かろうじて紅葉が残っていました。



しばし紅葉狩り。

しばらく進むと、聖徳太子の騎馬像があります。

なぜか笛を吹いています。
笛吹童子のようです(古っ!)。

その近くには、樹齢1500年と伝わる御神木の榧の木があります。

その説明板。
聖徳太子の物部守屋討伐を知っている木だそう。

どう見ても樹齢1500年もありそうには見えないのですが(せいぜい2~300年?)、まあ、疑うのは野暮というものでしょう。

紅葉の向こうに見えるのは、融通殿です。


紅葉が綺麗です。

さらに上に登ります。

成福院です。

成福院には15mの大地蔵尊があります。

成福院からの眺望。
左奥に見えるのが本堂です。

本堂に向かいましょう。

あの石段の上が本堂です。

本堂です。

聖徳太子が開祖と伝わる朝護孫子寺は、その後、延喜10年(910年)に伽藍を整備した命蓮上人を中興の祖とします。
このとき、病だった醍醐天皇を命蓮が治癒したことから、天皇によって「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺とされ、「朝護孫子寺」の勅号を賜ったとされます。

戦国時代、松永久秀と織田信長の間で行われた信貴山城の戦いの際に戦火に遭い、伽藍は全焼します。
その後、本堂は文禄年間(1593~96年)に豊臣秀吉によって再建されたという説と、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建されたとする説があり、定かではありません。
のちに修復を加え、延享3年(1746)に完成しましたが、昭和26年(1951年)に不慮の火災で焼失し、昭和33年(1958年)に再建、現在に至っています。

本堂地下にある戒壇めぐりが有名だそうですが、この日は信貴山城攻めが目的なので、パスしました。

本堂からの眺望です。
飛鳥方面が一望できます。

聖徳太子も松永久秀も、この景色を目にしていたかもしれません。

さて、朝護孫子寺を参拝したので、信貴山城を攻め登りましょう。
「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-05-05 22:21 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
駐車場から本丸跡までどのくらいかかるんですか?
車で行けるのは、ここ朝護孫子寺までです。
そこから山頂までは30分ほどの登山になりますが、登山道は本丸跡にあるお堂の参道になっているので、整備されていて登りやすいです。
ただ、本丸はほとんど遺構は残っておらず、信貴山城のいちばんの見どころは、本丸かた北側に少し降りたところにある松永久秀居館跡を含む広大な曲輪群です。
「その4」で紹介していますので、よければ。