松永久秀終焉の地・信貴山城。 その3 <主郭>
「その2」のつづきです。
雌嶽曲輪まで攻略したので、雄嶽の山頂にある信貴山城主郭を目指します。

前稿で紹介した鞍部からのスタートです。
誘導板には信貴山城跡まで190mとあります。

ここでもう一度、前稿で紹介した縄張り図を載せます。

山頂にある空鉢護法堂の鳥居が連なります。

鞍部から登ること約5分。
広い削平地に出ました。

どうやらここが山頂の一段下のようです。

そこから、山頂に上る道があります。
切通虎口にように見えますが、たぶん、近年のものでしょう。

雄嶽山頂の曲輪です。
ここが信貴山城主郭です。

主郭には、石碑と案内板が設置されています。

現在の信貴山城跡の遺構は、松永久秀の時代のものです。
三好長慶から大和国の統治を任された松永久秀は、永禄2年(1559年)に信貴山城を築いて軍事の拠点とし、翌年に多聞山城を築いて政務の拠点としました。
長慶の死後、久秀は三好三人衆と対立し、永禄11年(1568年)には三好三人衆方の三好康長によって信貴山城は攻め落とされますが、久秀は同年6月に上洛した織田信長に接近して九十九茄子の茶器を献上し、信長の助力を得て信貴山城を奪還しました。

元亀2年(1571年)、久秀は信長に反旗を翻しますが、翌年に多聞山城を明け渡して降伏しました。
しかし、天正5年(1577年)に久秀は再び信長に叛き、ここ信貴山城に立て籠もりました。
久秀謀反の報せを聞いた信長は、家臣の松井友閑を派遣して説得を試みますが、久秀はこれに応じませんでした。
このため、久秀が信長のもとに人質として差し出していた二人の息子が、京都六条河原で処刑されています。

そして9月27日、信長は嫡男の織田信忠を総大将として、久秀討伐を開始。
10月1日、明智光秀、細川藤孝・忠興父子、筒井順慶らは、信貴山城の支城の片岡城を攻め落とし、10月3日、久秀が籠る信貴山城に迫った織田軍は城下に火を放ち、10月5日から4万の大軍で攻撃を開始するも、難攻不落の信貴山城は容易には落ちませんでした。
しかし、衆寡敵せず、援軍の見込みもないなか久秀はついに観念し、10月10日、天守に火をかけて自害しました。
久秀は享年68、息子の久通は享年35でした。
この10月10日というのは、ちょうど10年前の永禄10年(1567年)、久秀が三好三人衆との戦いで東大寺を焼いた日と同じ日でした。
そのため、人々は神罰だと噂したといいます。

信貴山城が包囲されたとき、織田軍の佐久間信盛が茶器の古天明平蜘蛛をよこすよう求めるも、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したといい、久秀自害の際、自らの手で粉々に打ち砕かれたとも、爆薬を仕込まれて木っ端みじんになったともいわれます。
しかし、これらの説は皆、江戸時代に入ってからの軍記物語などに見られる逸話で、史料として信憑性の高い『信長公記』には、平蜘蛛の釜については一言もふれられていません。
なので、実際にはどうなったかわからないようです。

主郭跡の西側には、空鉢護法堂があります。
石碑の建つ主郭跡から鳥居群が伸びています。

空鉢護法堂は一段高くなっていて、石段が伸びています。
かつて久秀時代の信貴山城には、「高殿」「高櫓」などと呼ばれる四重の天守があったと伝わります。
だとすれば、おそらく、今の空鉢護法堂がある場所にあったのでしょう。

空鉢護法堂です。
朝護孫子寺の中興の祖と伝わる命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来します。

空鉢護法堂の南側はデッキのようになっており、素晴らしい眺めが拝めます。

空鉢護法堂からの眺望です。
手前に見えるこんもりとした丸い峰が、「その2」で紹介した雌嶽です。

雌嶽にズームイン。

南に金剛山系が見えます。
あの山々に、南北朝時代、楠木正成が築いたと伝わる千早城を始めとする楠木七城があります。

西を見ると、河内平野。
PLの塔が見えます。

東を見ると大和平野。
神武天皇陵(初代天皇)のある畝傍山が見えます。

さて、主郭まで攻略しましたが、信貴山城跡のいちばんの見所は、実は遺構がほとんど消えてしまった主郭ではなく、松永屋敷跡を含む北側の曲輪群にあります。
「その4」では、その曲輪群を攻めます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-05-13 01:02 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
なかなか。
平蜘蛛の茶釜の話は真実だとばかり思ってました(笑)。
彼が爆死したというのは、本当なんですか?
彼が初めて、落城時の切腹以外の死に方をしたと聞いていたのですが。
爆死の話も後世に盛られた話のようですね。
当時の記録には自害したとあるだけで、その自害の方法は記されていないようです。
また、『多聞院日記』では久秀自害の翌日に安土城に首級が届けられたとあるそうですから、おそらく切腹だったんじゃないでしょうか?
爆死の話は、平蜘蛛の話と共に昭和の時代に創作された話のようです。