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鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~

 兄の源頼朝より鎌倉入りを拒否され、所領もことごとく没収された源義経でしたが、改元して間もない文治元年(1185年)816日、頼朝の申請によって伊予守に任命されました。伊予守は播磨守と並ぶ最高ランクの受領で、河内源氏の先祖として崇拝されていた源頼義が就任した地位でもあったため、義経はこれ以上ない恩賞を受けたことになります。壇ノ浦の戦い後に頼朝より激しい怒りを買った義経でしたが、この時点では頼朝はまだ義経を見限ってはいなかったことがわかります。


鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_18315745.jpg ドラマで描かれていたように、本来、受領に昇進すれば、検非違使辞任するのが通例でした。ところが、義経は検非違使に留任します。九条兼実の日記『玉葉』によると、これを「未曾有」仰天しています。ドラマの兼実も驚いていましたね。そんな先例のない異常な人事を行うことができたのは、治天の君である後白河法皇以外には考えられません。検非違使は在京活動が原則であり、義経は京にとどまらざるを得なくなります。一方、受領は現地に赴任しないのが一般的であり、源氏一門の場合は、鎌倉在任が原則でした。伊予守になれば、義経も鎌倉に召喚されることになります。ドラマで描かれていたように、これが頼朝の狙いだったのかもしれませんね。でも、だとすれば、平宗盛を護送して腰越まで来たとき、なぜ鎌倉入りを拒絶したのか、と言いたくなりますけどね。まあ、5月と8月では事情が違ったのでしょう。一方、義経を検非違使に留任させた後白河法皇の狙いも、逆に義経を京に留めおく狙いだったのでしょう。法皇は義経が頼朝政権の一角となって鎌倉幕府の勢力がより強固となるのを牽制したのでしょうね。


 鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_20415557.jpg頼朝と義経の決裂が決定的となるのは、それから2ヶ月ほど経った10月になってからのことでした。頼朝は1024日に二人の父親である源義朝の盛大な法要を計画し、当然、義経にも列席を求めました。しかし、義経はこれを拒否します。同じ頃、二人の叔父である源行家の頼朝からの参向要請を拒否し、敵対する動きを見せます。これを見た頼朝は梶原景時の嫡男・景季を義経のもとに遣わし、行家追討を要請します。しかし、義経は病気を理由にこれを拒否。頼朝はこれを仮病と判断し、義経と行家が結託していると判断しました。おそらく、頼朝が義経討伐を決意したのは、このときだったでしょう。頼朝はまず刺客を送り、義経を挑発します。1017日、刺客の土佐坊昌俊60余騎が京の義経邸を襲いますが、義経の必死の応戦に行家が加わり、辛くもこれを撃退します。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し、行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げました。


そして翌日、後白河法皇より頼朝追討の宣旨を受けます。これについては、古くから後白河法皇が義経を扇動したと考えられてきましたが、最近の研究では、義経が法皇を脅して宣旨を発給させたという見方が通説となっています。『玉葉』によると、九条兼実は罪科のない頼朝に対して追討宣旨を発給することに反対したものの、容れられなかったとあります。


 自身の追討宣旨が下された頼朝でしたが、動じることなく父の法要をすませ、その後、供養に列席した御家人たちをそのまま上洛軍に編成し、1029日、頼朝自ら軍を率いて義経追討に出陣しました。頼朝自らの出陣は、治承4年(1180年)10月の富士川の戦い以来、5年ぶりのことでした。兄弟の戦いである以上、当事者である頼朝が出撃しないわけにはいかなかったのでしょうね。


鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_20044046.jpg一方の義経は、挙兵したものの兵を集められずにいました。義経にしてみれば、わずか8ヶ月前の屋島から壇ノ浦にかけての戦いのときのように、多数の西国武士の協力を想定していたのでしょう。しかし、あのときと今とでは、事情が違っていたんですね。そもそもあのとき彼らが義経に従ったのは、反平家という利害の一致からであり、義経の個人的魅力ではなく、頼朝の代官という地位と、後白河法皇による平家追討命令でした。今回は、いわば頼朝と義経の壮大な兄弟喧嘩であり、西国武士にとっては、戦う理由がひとつもありません。『玉葉』のなかで九条兼実は、義経に強制された頼朝追討命令に正当性はなく、しかも、法皇を拉致するという噂までたって人望を失い、協力者がいなかったとしています。まさに、法往寺合戦後の木曾義仲二の舞いでした。


 京で頼朝軍を迎え撃つことを諦めた義経と行家は、113日、態勢を立て直すべく九州を目指して都落ちします。その数、わずか200ほどだったといいます。法皇を拉致するといった噂も流れていましたが、義経一行は京に混乱を起こすことなく整然と退去したといいます。これを見た九条兼実は『玉葉』のなかで、義経の行動を「義士」と称えています。ここは義仲のときとは違うところでした。


 義経と行家の挙兵が失敗に終わったと見た頼朝は、上洛を中止して鎌倉に戻り、代わりに北条時政に千騎の兵を預けて代官として上洛させました。同じ頃、朝廷では義経と行家の没落を受けて、1111日に義経、行家の追討院宣が下されています。九条兼実は『玉葉』のなかで、「世間の変転、政務の軽忽、これをもって察すべし」と、後白河法皇の軽率さを痛烈に批判しています。ドラマでは、義経追討を命じる法皇に対して、兼実は「もう一度お願いいたします」と何度も聞き返していましたね。三谷さん流のコミカルな演出で笑っちゃいましたが、おそらく『玉葉』の兼実の激しい批判をベースにしたシーンだったのでしょう。義経から強要されていたとはいえ、頼朝追討宣旨に反対したものの受け入れられなかった兼実としては、この短期間の掌返しには呆れていたようです。


 さらに法皇は使者を鎌倉に送り、「行家、義経謀叛の事、偏に天魔の所為たるか」とし、頼朝追討宣旨は義経に脅されたために下したものであり、法皇の本心ではないと言い訳しました。しかし、頼朝は返書で、後白河法皇の意思なくして、平家を倒して政務を後白河法皇に返した忠義を謀叛に転じることはありえないとし、法皇を、「日本第一之大天狗」と罵倒したことは、あまりにも有名ですね。法皇は宣旨を義経の脅しによるものとし、木曾義仲のときと同じだと弁明しましたが、頼朝はこれを認めませんでした。たしかに、宣旨そのものは義経に強要されたものだったかもしれませんが、伊予守の受領就任に際して検非違使を留任させ、頼朝の意に反して義経を京に留め置いたのは法皇の意思に他なりません。元より敵対していた義仲と頼朝とは違い、義経と頼朝は、法皇の仲介によっては和解の可能性もあったかもしれません。義経と頼朝の決裂は、半分は法皇の所為だったといえるでしょうね。


 ただ、それがわかっていたのなら、頼朝は義経に対してもう少し寛大になれなかったのかと思ってしまいますが、経緯はどうあれ、義経が反頼朝の旗を挙げた以上、これを見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。頼朝と義経の対立というと、どうしても頼朝が猜疑心の強い冷酷な悪人として描かれることが多いですが、今回のドラマは、なんとか関係を修復しようとする頼朝の苦悩が描かれていて切なかったですね。その結末がわかっているだけに、二人のボタンの掛け違いの幕をどのように閉じるのか、次回が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2022-05-16 21:09 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)  

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