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松永久秀の大和国支配の拠点、多聞山城。

前稿まで松永久秀の居城・信貴山城を攻めましたが、奈良県にはもう1ヶ所、松永久秀の居城がありました。

奈良市内の中心地、東大寺からほど近い場所にあった多聞山城です。

多聞城とも呼ばれます。


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現在、多聞山城の城跡の大部分は若草中学校の敷地となっており、遺構はほとんど残っていません。

上の写真は若草中学校の正面階段です。

この階段は中学校の建設に伴い設けられたものですが、この階段が、多聞山城の大手にほぼ一致すると考えられているそうです。

右手(東)に出曲輪状の突出部があり、虎口に対して横屋が掛かるようになっています。


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階段横には、「多聞城跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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校門前に設置されていた説明板です。


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そこから南東に目をやると、若草山が見えます。

三好長慶から大和国の統治を任された松永久秀は、永禄2年(1559年)8月に当時実質的な大和の支配者であった筒井順慶の居城・筒井城を攻め落とすと、大和国国人衆を支配し、自身は大和国と河内国の国境に位置する信貴山城を整備して入りました。

しかし、信貴山城は大和国の中心である奈良町からは遠すぎたため、永禄3年(1560年)から奈良町を一望できる東大寺北方の丘陵に多聞山城を築き、信貴山城軍事の拠点とし、多聞山城を政務の拠点としました。


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若草中学校正門から少し南へ下ったところにある若草公民館で、城跡のパンフレットと案内図がもらえます。

この案内図を参考に歩いてみましょう。


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若草中学校東側にやってきました。

道を挟んで左側の丘上が校舎、右側の丘上が運動場となっているのですが、その間を通るこの谷底の道が、かつての堀切跡と考えられているそうです。


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反対側(北側)から見た堀切跡

かつて東側の運動場のある場所が善称寺山、右側の校舎のある丘を多聞山といい、その間をこの堀切で分断していました。

ここが、多聞山城の東端と考えられています。


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上から見た堀切跡です。

深い!


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上の案内図では、校舎北側にわずかに土塁が残るとのこと。

行ってみましょう。


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校舎北側にやってきました。


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土塁と言われれば、たしかにそう見えます。


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校舎のある多聞山南東に来ました。

ここも、自然がそのまま残されています。


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これらの地形が、かつての城跡の遺構なのかどうか、わたしには判断がつきません。


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探索していると、ばったり鹿に出くわしました。

さすがは奈良です。


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鹿の家族でしょうか?

わたしが近づくと姿を消しちゃいました。


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南東から見た多聞山です。


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若草中学校のある多聞山の西側に聖武天皇陵(佐保山南陵)光明皇后稜(佐保山東稜)が並んでいるのですが、ここも、多聞山城の城域だったということで、やって来ました。


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聖武天皇陵です。


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そして、その東にある光明皇后稜です。


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この2つの陵墓の間に堀切が設けられているそうで、これが多聞山城の西端と考えられているそうです。

もっとも、この先は宮内庁管理下の陵墓のため、入ってその堀切跡を確認することはできません。


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最初の若草中学校校門前に戻って、校門の東側に古い石仏や石塔を集積した一角があります。


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その隅には、「多聞城有縁無縁供養」と刻まれた石碑が建てられています。

この石塔群は、校舎や体育館建設時に建築現場から掘り出されたものだそうで、ここにひとまとめにされて供養されているそうです。


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永禄11年(1568年)、松永久秀織田信長より大和国支配を認められましたが、元亀2年(1571年)8月の辰市城合戦筒井順慶に大敗を喫すと、久秀の勢力は陰りを見せ始めます。

天正元年(1573年)、足利義昭に呼応して信長に反旗を翻した久秀でしたが、義昭が追放されたことで窮地に陥り、ここ多聞山城を明け渡して降伏しました。

その後、天正4年(1576年)に大和守護職に任ぜられた筒井順慶が多聞山城に入らなかったため、多聞山城は取り壊されることとなります。


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永禄8年(1565年)、多聞山城を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダの記述によると、多聞山城は多数の塔や砦が建ち、城壁は真っ白に輝き、黒光りする厚手のが葺かれていて、主殿や庭園の豪壮さは、京都の寺院や貴族の邸をはるかに凌ぐものだったと伝えています。

また、興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』には、天正5年(1577年)、多聞山の「四階ヤクラ(櫓)」解体するという記述があり、天守のような高層櫓があったことがうかがえます。

さらに、『多聞院日記』の天正7年(1579年)の記述には、多聞山城のを当時築城中だった大和郡山城運んだことが記されており、多聞山城は外周の切岸に石垣を積んだ城だった可能性があります。

ここにある石塔群は、大和郡山城に石材を運んだ際、運ばれなかった墓石類ではないかと言われているそうです。


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天正2年(1574年)327日、織田信長が多聞山城の検分に訪れ、その翌日、正倉院に伝わる名香木「蘭奢待」をここ多聞山城に運ばせ、これを切り取り、自らの権勢を誇示するパフォーマンスを行いますが、このときの多聞山城検分が、のちの安土城築城に大きな影響を与えたとも言われます。

安土城より15年も早く石垣づくりで葺きの天守を持つ豪壮な城郭を築いていた松永久秀。

久秀こそ、近世的城郭(織豊城郭)の先駆者だったといえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2022-05-20 01:34 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)

 

Commented by heitaroh at 2022-05-20 18:25
あー、蘭奢待切り取りはここでのことだったんですか。
信長公記は読んだんですが、読み飛ばしてました。
こういうとき、現地に行ってると、「おお、あそこか!」という気になるのでしょうが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-21 20:17
> heitarohさん

そうなんですよね。
本から得た知識って文字だけの情報ですから、わかっているようで、実はあまり実感として残っていないことが多いですよね。
こうして来てみたら、なるほど東大寺や正倉院とこんなに近いんだ、とか、体で実感できますから、たぶん、もう忘れません。
頭のいい人は文字情報だけでも忘れないのでしょうが、わたしのような凡才は体を使わないとだめですね。

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