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鎌倉殿の13人 第20話「帰ってきた義経」 ~源義経の最期~

鎌倉殿の13人 第20話「帰ってきた義経」 ~源義経の最期~_e0158128_20044046.jpg 追われるように都落ちした源義経は、再起を図って九州に向かうも、途中暴風のために船が難破し、摂津に戻ってきました。その後は寺社などに匿われながら、吉野、鞍馬、多武峰、比叡山、興福寺などを転々としながら、伊勢、美濃を経て奥州に向かいました。『吾妻鏡』文治3年(1187年)210日条によると、義経は山伏に姿をやつし、妻子を連れて奥州に逃亡したと伝わります。しかし、九条兼実の日記『玉葉』で義経の奥州逃亡が確認できるのは翌年の正月のことで、実際に義経がいる奥州にたどり着いたかはわかっていません。いずれにせよ、義経が平泉に入り、奥州藤原氏の庇護下に入ったことは事実でした。


 義経が奥州に逃亡したのは、かつて鞍馬寺を脱出した少年義経を庇護してくれた藤原秀衡がいたからに他なりません。それゆえ、姿をくらました義経が、秀衡の元に向かうであろうことは誰もが予想できたことで、当然、源頼朝もこれを警戒していました。ところが、義経はその警戒網を突破して奥州亡命に成功するんですね。このあたりは、さすがは義経といったところだったでしょう。


 鎌倉殿の13人 第20話「帰ってきた義経」 ~源義経の最期~_e0158128_20151747.jpgかつての少年義経を、秀衡はわが子のようにかわいがっていたといいます。そんな義経が亡命してきたわけですから、匿って当然、といいたいところですが、当時とこのときとでは政治事情が違っていました。少年義経を庇護していたときは平家隆盛期で、平家政権は奥州に対して政治的関心はそれほど高くありませんでしたが、鎌倉は地理的に奥州に近く、頼朝は秀衡の動向を警戒していました。そこに、目下、最大の敵となった義経が潜伏すれば、鎌倉と平泉、頼朝と秀衡の関係が険悪となるのは明白でした。ところが、秀衡は義経を受け入れるんですね。義経を匿うということは、鎌倉との衝突を覚悟するということでした。やはり、秀衡は本当に義経をわが子のように思っていたのでしょう。


 ところが、その秀衡が、文治3年(1187年)1029日に病没してしまうんですね。歴史とは本当に皮肉に、そしてドラマチックに出来ているものです。『吾妻鏡』によると、死を前にして秀衡は、嫡男の泰衡らに義経を大将軍として国務を行うよう遺言したといいます。「義経を大将軍にせよ」ということは、イコール「鎌倉と戦え」ということだったでしょう。また、『玉葉』によると、秀衡は死去に際して「兄弟和融」のために「他腹之嫡男」自身の妻を娶らせたといいます。「他腹之嫡男」とは、泰衡の異母兄・国衡のこと。国衡は秀衡の長男でしたが、庶子であったため、跡継ぎは正室の子である次男の泰衡となっていました。しかし、武勇に優れ、一族の期待が高かったのは国衡の方だったといいます。そこで秀衡は、自身の正室を国衡の妻とし、国衡と泰衡を義理の父子関係にし、兄弟の対立を防ごうとしたわけです。義母との結婚。自分の父親の妻を父の死後に妻として迎える・・・。現代を生きるわたしたちには理解できない関係ですね。


 しかし、そんな秀衡の死に際の努力も虚しく、カリスマ秀衡を失った奥州藤原氏には、義経を大将軍として頼朝に立ち向かう団結力はありませんでした。秀衡の死を知った頼朝は、文治4年(1188年)2月と10月に義経の身柄を引き渡すよう朝廷を通じて泰衡に圧力をかけます。これに対し、平泉では激しい動揺が起きていました。『尊卑分脈』の記述によると、文治5年(1189年)215日、泰衡は末弟の頼衡殺害しています(ドラマでは善児が殺していましたが)理由は定かではないものの、時期的に見て、おそらく義経の擁護をめぐる一族間の対立だったと考えて間違いないでしょう(のちに泰衡は義経殺害後に義経に味方したもう一人の弟・忠衡も殺害しています)。泰衡にとって義経は、父が残したあまりにも重く厄介な荷物でした。


 文治5年(1189年)閏430日、ついに泰衡は頼朝からの圧力に屈し、数百騎の兵を率いて義経の起居していた衣川館を襲撃しました。対する義経の家人は20人余り。奮戦するも多勢に無勢、ことごとく討ち死にします。有名な「弁慶の立往生」の伝承は、このときのことですね。館を包囲された義経は、一切戦おうとせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前4歳の女子を殺害したのち、自刃して果てます。享年31英雄のあまりにもあっけない最期でした。


鎌倉殿の13人 第20話「帰ってきた義経」 ~源義経の最期~_e0158128_20415557.jpg 日本史上あまりにも有名な頼朝と義経の兄弟喧嘩について、世論はほとんど頼朝に味方しません。義経が無敵の強さで平家を滅ぼしたため、このまま放っておいては源氏の棟梁の座を奪われかねないと心配したのだとか、後白河法皇に気に入られて検非違使、左衛門少尉に任じられたことを嫉妬したとか、理由は頼朝の猜疑心にあるとされ、後世に「判官贔屓」という言葉を作りました。しかし、こうした感情的な次元でこの兄弟の関係をあげつらうのは歴史に対する適切な解釈とはならず、また、兄弟の情を持ち出して頼朝を裁くのは見当違いである・・・と、作家・永井路子氏はその著書『源頼朝の世界』のなかで述べられています。この時代、異母兄弟はライバルにこそなれ、親しく兄弟づきあいできる関係ではなかったことは当時の常識であり、それは、奥州藤原氏の末路を見てもわかりますね。永井さんは著書『つわものの賦』のなかで、頼朝を棟梁とする東国武士団の蜂起と、それに続く源平合戦を、「東国」という名の植民地が西国に対して行った独立戦争であると定義し、これを実現し得たのは、西国や朝廷から鑑賞されない頼朝の「恩賞権」であり、永井さんが「東国ピラミッド」と呼ぶ「御恩と奉公」の仕組みでした。このピラミッドの頂点にいる頼朝は、東国でただ一人の恩賞給付者でなければなりません。ところが、この理屈が義経にはわからなかった。軍事的には天才というべき才能を持ちながら、政治的才幹は皆無に近い義経は、頼朝が作った東国武士団の結束の根幹であるこの新しい組織とルールの意味がまるっきり理解できず、法皇より無断任官してしまった。これを見過ごせば、第二第三の義経を生み出すこととなり、鎌倉政権の屋台骨が崩れかねない。頼朝は義経を許すわけにはいかなかった・・・と、永井さんは断じます。


 『吾妻鏡』によると、義経の死が鎌倉に伝えられたのは529日で、首級は腐敗を防ぐために美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、613日に鎌倉に届きました。首実検を担当したのは和田義盛梶原景時。頼朝が義経の首と対面したかどうかは定かではなく、このときの頼朝の心情を伝える史料もありません。ドラマのように一人むせび泣いていたかどうかは、永遠に歴史の謎です。


 静御前の話も描かれていましたが、そもそも静御前は実在したかどうかも定かではない女性なので、拙文では割愛します。義経が主人公ではない物語で静御前の話を描くとなると、どうしても話が横道にそれちゃうんじゃないかと思っていたのですが、義経を動揺させるためのエピソードトークとして北条義時に語らせるという設定は、さすが三谷さんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2022-05-23 23:31 | 鎌倉殿の13人 | Trackback(2) | Comments(4)  

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Commented by kumikokumyon at 2022-05-24 16:18
あと2話くらい義経残留かなって思っていましたが
あっさりもう「首」になって鎌倉に帰ってきましたね。
歴史にタラカモは禁句ですが藤原秀衡があと5年でも生きていたらどうなったか・・・あの作戦で鎌倉を攻め落としていたかもしれません タラカモタラカモ
今一番人気の#は #全部大泉のせい だそうです(笑)
Commented by heitaroh at 2022-05-24 16:20
お尋ねです。
劇中、義経が「鎌倉を攻める作戦を考えた」とか言って、開陳していたじゃないですか。
あれって、「炎立つ」のときの、野村宏伸の義経も同じようなこと言ってたんですよ。
海から奇襲するって。
私は、当時、それを聞いて、「そんなバカな」とげんなりしたのですが、今度も同様のことを言っていたじゃないですか。
あれって、何か、元になる伝承か何かあるんですか?
到底、義経がまともにそんなこと考えたようには思えないのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-24 22:13
> kumikokumyonさん

ここ数話は義経が主人公のようなものでしたから、完全に菅田義経ロスになっちゃいました。
やっぱ菅田くんはスゴイわ!
藤原秀衡が生きていたら、あるいは・・・と思いたくなる人は多いかもしれませんが、わたしは、たとえ秀衡が生きていたとしても、最終的には鎌倉軍に滅ぼされていたように思います。
秀衡が生きていたら頼朝も慎重に事を進めたでしょうから、もうちょっと時間はかかったかもしれませんが。
元々、頼朝にとって奥州藤原氏は目障りな存在でしたから、遅かれ早かれ従属を強いるか攻め滅ぼすつもりだったはずで、義経を匿ったということは、むしろ奥州攻めの大義名分が出来て渡りに船だったかもしれません。

#全部大泉のせい

爆笑!
頼朝ではなく大泉なんですね(爆笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-05-24 22:31
> heitarohさん

いや、わたしもよく知らないんです。
「炎立つ」はわたし途中でリタイヤしたので、そこは観ていません。
でも、同じことを言ってたんなら、出典があるのかもしれませんね。
だとしたら、おそらく『義経記』とかのような軍記物なんじゃないでしょうか?
あの作戦の良し悪しはわたしにはわかりませんが、史実ではないでしょう。
おそらく、思いもよらない崖の上から攻めてきた一の谷、海側ばかり防御していたら山側から攻めてきた屋島など、義経の戦い方はいつも敵が無警戒のところから攻めてくるという作戦だったという観点から、義経が鎌倉を攻めるなら、誰も予想しない海から攻めるんじゃないかという想像から来た話なんじゃないかと。
あと、後年、鎌倉を攻め滅ぼした新田義貞は、海からの奇襲でしたよね。
この伝承が後世に出来たものなら、義貞の鎌倉攻めもヒントになっていたかもしれません。

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