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鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~

 後白河法皇の喪が明けた建久4年(11935月、源頼朝は下野国那須野、信濃国三原野、駿河国富士野などの各地で大規模な巻狩りを催しました。「巻狩り」とは、猟犬や勢子(狩猟の補助者)などが四方から猪や鹿を取り囲み、獲物を追いつめて射止める狩猟で、武士にとっては軍事演習であるともに、武士同士が親睦を深める遊興の場でもありました。また、主催者である頼朝にとっては、大規模な巻狩りを催して権威を示す意図もありました。


鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~_e0158128_21560926.jpg 富士野の巻狩りでは、頼朝の長男・源頼家巻狩りデビューを飾りました。この巻狩りは、頼家を鎌倉殿の後継者として御家人たちに周知させるための催しでもあったようです。そのデビュー戦で、頼家はいきなり鹿を一頭射抜いたといいます。どうやら、弓の名手である愛甲季隆がサポートしたおかげだったようですが、このとき頼家はまだ元服前の12。頼朝はたいそうな喜びようだったようで、その晩、山神、矢口を祭り、北条義時が神にささげる餅を献上したと伝わります。餅などはあらかじめ準備する必要があるので、頼家の勲功は予定されたことだったのかもしれません。動かない鹿を仕留めた・・・ということはなかったと思いますが(笑)。


鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~_e0158128_21324530.jpg また、『吾妻鏡』によると、息子の活躍を喜んだ頼朝は、さっそく鎌倉にいる政子の元へ使者を送って報告させたといいます。ところが、報告を受けた政子は、「武将の跡取りたるもの、狩で獲物を獲るのは当たり前のこと。わざわざ報告に来るほどのことでもない」と、使者を追い返したといいます。この政子の塩対応については、比企氏が乳母である頼家のことを政子は嫌っていたからなどと言われますが、真意はわかりません。一方、ドラマ時代考証担当の坂井孝一氏によると、この話自体事実ではなく、頼家を貶めるための『吾妻鏡』曲筆だと推察されています。真実はどうだったでしょうね。『吾妻鏡』は、使者の梶原景高が恥をかいたとしていますが、これが実話なら、恥をかいたのは浮かれていた頼朝だったでしょう。


 そんな巻狩りもたけなわの528日夜、後世に語り継がれる大事件が発生します。曾我十郎祐成、曾我五郎時致の兄弟が頼朝たちの宿営に侵入し、頼朝側近の工藤祐経を殺害した事件。世にいう「曾我兄弟の仇討ち」です。工藤祐経は曾我兄弟にとって父・河津祐泰を殺した仇敵でした。


 鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~_e0158128_22030866.png事の発端は頼朝の挙兵以前に遡ります。河津祐泰の父は伊藤祐親で、工藤祐経とは元は同族でした。ところが、やがて領地をめぐって対立関係となります。みんな「佑」がついててややこしいので、全て苗字つきで解説しますね。ドラマ第2話の稿でも紹介しましたが、工藤祐経が上洛中に伊東祐親にその所領と妻を奪われてしまったことから、その報復に工藤祐経は伊東祐親の嫡男・河津祐泰を殺害しました。その後、京の文化に通じていた工藤祐経は頼朝に仕えて寵臣となりますが、伊東祐親の孫で河津祐泰の息子の一万と筥王は、母親が相模武士の曾我祐信と再婚したため曾我を名乗って育ちます。しかし、姓は変わっても、父を殺された恨みは忘れていませんでした。そしてこの日、酒に酔って寝入っている工藤祐経を討ち取り、見事に本懐を遂げたのでした。


 この事件は赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、「日本三大仇討ち」のひとつとして語り継がれ、武士社会においては仇討ちの模範とされました。第二次世界大戦前には尋常小学校の教科書にも採用されていたほどで、親孝行の美談とされました。ところが、近年、この事件は単なる仇討ちではなく、政治的陰謀だったのではないかと言われています。なぜなら、このとき頼朝を擁護する御家人が多数殺され、頼朝も命の危険にさらされ、頼朝自ら剣を握る一幕もあったからでした。工藤祐経殺害に乗じて、一気に頼朝の命も取ろうとしていた、と。しかし、そんな大それた計画を、年若い曾我兄弟が単独で行えるはずがなく、黒幕がいたに違いない。そこで以前から唱えられてきたのが、北条時政黒幕説です。


 鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~_e0158128_18070729.jpg北条時政は曾我五郎時致の烏帽子親でした。「時」の字を見ればわかりますね。また、『吾妻鏡』によれば、兄の曾我祐成も以前から時政に参勤していたといいます。兄弟は頼朝の直の御家人とはまだなっておらず、実質的には時政の家人でした。また、このとき時政は富士野の巻狩りの宿営などを設営する責任者に任じられており、いわば富士野巻狩りの実行委員長でした。巻狩りの参加者のスケジュールや宿舎をいちばん把握していたのが時政であり、暗殺の陰謀を企てるには最もやりやすい立場にあったといってもいいでしょう。それらの条件から、事件は時政の手引きで勃発したとの見方が強く、時政が頼朝暗殺を企てたのではないか、と見る歴史家の方々も少なくありません。


 しかし、条件は揃っていても、時政にその動機が見当たりません。そもそも時政と頼朝は共に頼家の二代鎌倉殿擁立で利害が一致しており、頼朝を殺害するメリットがない。また、事件後、時政が何らかの処罰を受けたという史料はなく、むしろ、事件後に両者の関係は以前より良好になったとさえいえます。時政が関わっていたという推論は、無理がありそうです。そこで、事件との関係で注目されるのが、頼朝の弟・源範頼の失脚です。


 『吾妻鏡』によると、範頼は82日に謀反の嫌疑をかけられ、頼朝に起請文を提出したとあります。記事は唐突で、曾我事件との関わりは不明ですが、一方、南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』によれば、富士野で頼朝が討たれたという誤報に接して狼狽する政子に対して、範頼が「私がいれば幕府は安泰です」と慰めたために、野心を疑われたといいます。範頼については、次週に描かれるでしょうから、ネタバレになるのでこれ以上は語りません。


 ドラマの曾我事件は、通説、俗説、推論をすべて盛り込んで三谷さん流に解釈した秀逸な脚本でしたね。事件に黒幕はおらず、曾我兄弟が企てた頼朝暗殺計画だったとし、逆に時政を利用したというシナリオで、それに気づいた義時が未然にこれを防ぎ、時政と北条家に責任が及ばぬよう、謀叛を仇討ちにすり替えたという設定。すごいとしか言いようがありません。三谷幸喜という人の脳内を覗いてみたいですよね。


 そして、ここまで知恵がまわる義時を頼朝はどう思ったのか。


 「小四郎、二度とわしのそばを離れるな。わしのためでもあるが、お前のためでもある」


 あの台詞に込めた意味は何なんでしょうね。もうすぐ頼朝の人生が終焉を迎えようとしています。



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by sakanoueno-kumo | 2022-06-13 22:07 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2022-06-16 18:28
これ、やっぱり陰謀説なんだ・・・と思って見てました。
「草燃える」でも陰謀説でしたので。
そもそも、日本三大仇討と言っても、この、曽我兄弟のそれは見事に今は誰も知りませんよね。
私も、陰謀説以前に、曽我兄弟事件を知らなかったので、読んでみようと思ったことがあるのですが、結局、ありませんでした。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-06-16 20:18
> heitarohさん

「草燃える」の陰謀説って、時政黒幕説ですか?
それとも範頼陰謀説?
今回は陰謀説というより、曾我兄弟が謀反のために時政を利用し、比企がそれに便乗したって感じの設定でしたよね。
これって、他にはない設定で秀逸だったと思います。

おっしゃるように、曾我事件は今ではあまり知られていませんよね。
理由はわかりませんが、曾我事件は純粋な仇討ち事件ではなく、頼朝暗殺計画だったというのが、今のほとんどの主流だからじゃないでしょうか?
それと、そもそも仇討ち自体、今の時代にはあまり共感を得られませんから。
忠臣蔵だって、昔のように視聴率取れないですしね。
今の若い人は忠臣蔵も知らないかもですよ。

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