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鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~

 建久4年(1193年)528日に起きた曾我事件2か月後、源頼朝と実弟・源範頼が失脚しました。時期的に見て、曾我事件と関連していたと見ていいでしょう。『吾妻鏡』によると、範頼は82日に謀反の嫌疑をかけられ、頼朝に起請文を提出したとあります。記事は唐突で、曾我事件との関わりは不明ですが、一方、南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』によれば、富士野で頼朝が討たれたという誤報に接して狼狽する政子に対して、範頼が「私がいれば幕府は安泰です」と慰めたために、野心を疑われたといいます。


鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~_e0158128_20064602.jpg 起請文を受け取った頼朝は、その中で範頼が「源範頼」源姓を名乗ったことを過分として許さず、伊豆国に流しました。かつて義経が源姓を名乗ったときは特に責め立てていませんでしたから、言いがかりと言っていいでしょうね。伊豆に流された範頼は修禅寺信功院に幽閉され、その後どうなったのかは判然としません。おそらく暗殺されたのでしょう。


 範頼は独断専行型だった義経とは違い、平家との戦いにおいても、常に兄・頼朝の指示を仰ぐ従順な弟でした。そんな範頼が頼朝に対して謀叛を計画していたとは、ちょっと考えづらいですね。『保暦間記』が伝える政子への言葉が実話だったとしても、おそらくそれは、狼狽える政子を純粋に励ました言葉であって、決して謀叛心から来たものではなかったでしょう。ドラマのとおりだったでしょうね。頼朝もそれはわかっていたはず。ところが、範頼は粛清された。おそらく、頼朝は冤罪とわかったうえで、謀叛を口実に範頼を粛清したのでしょう。なぜそんなことをしたのか。その背景には、後継者問題があったと考えられます。嫡男の頼家はまだ12。このとき頼朝45。人生50年の時代ですから、いつ自分の身に何かあるかわからない。そうなれば、頼家の立場が危うい。この頃の頼朝は、常にその心配をしていたように思われます。義経を葬り去ったのも、同じ理由だったでしょう。また、範頼失脚と同時期、旗揚げ以来の老臣である大庭景能、岡崎義実が出家しており、甲斐源氏の安田義定・義資父子も粛清されています。これも、頼家の立場を脅かす源氏一門の排除が目的だったでしょう。この時期の頼朝は、猜疑心の塊だったように思われます。


鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~_e0158128_20415557.jpg もうひとつ、この時期の頼朝の失政として後世に悪評なのが、長女・大姫の入内計画です。建久6年(1195年)2月、頼朝は政子、大姫、頼家を伴い、2度目の上洛を行いました。その目的は、東大寺再建供養に出席するためと、娘の大姫を後鳥羽天皇にするための工作を行うことにありました。実は大姫の入内計画は、後白河法皇が健在だった建久2年(1191年)にも、一度あがっていたのですが、法皇の薨去と、同じく娘を入内させていた九条兼実との摩擦を避けるため、沙汰止みになっていました。ところが、この時期になぜまたこの話が浮上してきたのか。タイミング的には九条兼実が失脚したということもありましたが、一説には、天皇の外戚として権勢をふるったかつての平清盛のやり方を踏襲したのではないかと言われています。また、別の説では、後鳥羽天皇と大姫の間に生まれた皇子を鎌倉に迎え、東国の王として推戴しようとしていたとも言われます。しかし、自身を「朝の大将軍」と称し、朝廷を保護下に置いたと自負する頼朝が、今さら東国に皇族を擁立しようとしたとは思えません。歴史家の呉座勇一氏は、その著書『頼朝と義時』のなかで、頼朝が強引に入内計画を進めようとしたのは、自身の死後、まだ年若くカリスマ性に欠ける頼家を権威で飾り立てるためだったのではないか、と説かれています。大姫が後鳥羽天皇の后になれば、頼家は天皇の義弟となりますし、大姫が産んだ皇子が天皇になれば頼家は天皇の外叔父となります。曾我事件によって後継者問題を改めて強く意識した頼朝は、自分のためというより、頼家のために入内計画を進めたのではないかと。


 ところが、頼朝の計算どおりにはいかない事態が発生しました。大姫の病死です。元々大姫は、幼少期の許嫁だった源義高の死に直面して以来、心に深い傷を負って病気がちとなり、入内計画が行われているときも臥せりがちだったといいます。そして建久8年(1197年)714日、大姫は息を引き取ります。病気がちな身体には、京への長旅や入内計画が心労になったのかもしれません。享年20父の政治の翻弄された生涯でした。


 大姫の死による頼朝、政子夫婦の悲嘆は察するに余りありますが、この時期は『吾妻鏡』が欠落していることもあって、頼朝の感慨や前後の詳しい事情を知ることは出来ません。ただ、ドラマの頼朝も言っていたように、大姫が死んでも頼朝は諦めず、今度は次女の三幡を後鳥羽天皇の后にすべく計画を進めたといいます。もはや執念ですね。『尊卑分脈』によると、三幡は鎌倉にいたまま女御宣旨を受けたといいます。頼朝が三幡を伴って上洛していたら、おそらく入内は実現していたでしょう。しかし、3度目の上洛は実現しませんでした。頼朝が急死したからです。


 ドラマでは、大姫の死と範頼の暗殺を紐づけた脚本でしたね。伊豆に流された範頼がいつ死んだかはわかっておらず、この設定は矛盾していません。ただ、わたしは、おそらく範頼は伊豆に流されて間もなく殺されたんじゃないかと思いますね。長く生かしておいたら、誰が範頼を神輿に担ぐかわからない。早めに殺した方が、後々の憂いがない。この頃の頼朝ならそう考えたんじゃないでしょうか。なぜ頼朝はそこまで怯えるのか・・・と思いがちですが、それほど、頼朝政権というのはまだ盤石なものになっていなかったということでしょう。次週が前半のクライマックス。どう描かれるか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2022-06-21 16:44 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2022-06-24 10:59
ようやく見ました。
見てて思ったのが二つ。
今のプーチンも同じなんだろうなということと、あれじゃ、頼朝死んで、真っ先に殺されるのは大江広元じゃないかってこと。
実際には、彼だってバカじゃなかったでしょうから、学者としての立場以上には差し出たことは言わなかったと思いますが。
それにしても、まだ、6月でもう頼朝退場なんですね。
義時が主人公とはわかってますが、いささか早すぎるような。
それと、義時より、政子の方が長生きするわけで、義時死後まで描かれるのかどうか。
描かれるのなら、政子が事実上の主人公ということになりますよね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-06-24 21:35
> heitarohさん

>今のプーチンも同じなんだろうな

独裁者の孤独って点でしょうか?
今のプーチンも晩年の頼朝も秀吉も、裸の王様ですね。

>真っ先に殺されるのは大江広元じゃないか

たしかに、ドラマの描き方だとそうですよね。
でも、実際には13人の中でいちばん最後まで生きるのが大江広元。
きっと、世当たり上手だったでしょうね。

わたしは、きっと折り返しあたりで頼朝が死ぬと思っていましたよ。
「鎌倉殿の13人」ってタイトルですから、13人の合議制が始まってからが本番だろうと。
三谷さんも先日、何かの取材で言ってました。
頼朝が生きている間はプロローグに過ぎない、と。
総集編では頼朝の話は全てカットするかも、と。
まあ、それは三谷さんらしいジョークでしょうけど、頼朝が死んでからが本当の物語の始まりっていうのは、おそらくそうなんでしょう。
楽しみです。

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