城主は島左近か松永久秀か、椿井城攻城記。<前編> 登山道
信貴山城から東へ直線距離で約4kmのところに、かつて椿井城がありました。
椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないため、当初は在地土豪の椿井氏の居城だったと推測され、戦国末には筒井氏傘下の島左近の居城だったとも、松永久秀の信貴山城の出城だったとも言われますが、どれも定かではありません。
椿井城は、平群町と斑鳩町の境界に近い矢田丘陵の南西端の尾根状に南北300mに渡って築造された山城で、北部の主郭は標高241.5mです。
西麓の国道168号線沿いにある道の駅「大和路へぐり」に車を停めさせてもらって、いざ攻城開始。
登山口へは、所々に誘導板が設置されていて、迷うことはありません。
こっちにも。
ここを訪れたのは令和3年(2021年)3月14日。
この年は春の訪れが早く、もう桜が咲き始めていました。
これはソメイヨシノではないですね。
しばし桜見物。
西を振り返ると、松永久秀の居城・信貴山城跡が見えます。
信貴山城跡にズーム。
平等寺春日神社横の登山口にたどり着きました。
武将キャラの説明板があります。
この武将のモデルは誰だろう?
こちらには、めっちゃザクッとした案内図が。
いざ出陣!
「椿井井戸登山口」と書かれた立て札には、「城跡まで530m」とあります。
椿井井戸というのは近くにある古井戸のことですが、また、別稿で紹介します。
こちらの案内板によると、見学者の増加で城跡の遺構が傷んできており、北郭部分は当面、見学を制限しているとこのと。
北郭というと主郭部分です。
主郭に行けないのでしょうか?
「椿井城跡」と染められた幟がなびいています。
家紋は島左近が用いたといわれる「丸に三つ柏」ですね。
少し登ると、「宮裏山古墳」と書かれた立て札と、石室と見られる石積みがあります。
平群町観光ホームページによると、直径約15m、高さ約4.5mの円墳で、両袖式の横穴式石室は、玄室長3.9m、幅2.0m、高さ約3.2m、羨道長約4.4m、幅1.1mだそうです。
石室の形状より6世紀後半から7世紀初頭頃の築造とみられるそうです。
この付近は古墳だらけですからね。
先へ進みましょう。
ここにも幟が。
登山道に椿の花が落ちていました。
さすがは椿井城。
城跡まで290m。
土砂崩れの跡でしょうか?
城跡まで180m。
登山口から約15分、切通虎口のような場所に着きました。
そこを抜けると、城跡まで130m。
ここからは尾根道を北上します。
尾根道を進むと、人工芝が敷かれた土橋のような場所に到着しました。
立て札には「土橋・堀切」とあります。
どうやら、この土橋を渡ると、椿井城跡に入るようです。
人工芝がちょっと残念ですが、これも、城跡の遺構を守るためなんでしょうね。
反対側から見た土橋です。
土橋を渡ると、広い空間に出ました。
どうやら曲輪のようですが、登山道だけで長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2022-06-23 22:14 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
sakanoueno-kumoさんは前回の直木賞受賞作
『黒牢城』は読まれましたでしょうか?
荒木村重が主人公です。
sakanoueno-kumoさんだったらどう読むのかなと思ったので。
あっ、読みたいと思っているんですが、まだなんですよねぇ。
ブログで大河のレビューをやっていると、どうしてもその資料になるような本ばかり読んでいて・・・。
今年は鎌倉時代の本ばかり読んでいますし、昨年は渋沢栄一関係ばかり読んでいました。
一銭の得にもならないのにねぇ(苦笑)。