椿井城跡西麓を歩く。 その1 <平等寺春日神社と椿井春日神社>
前稿まで大和椿井城跡を攻城してきましたが、椿井城跡跡西麓にある史跡もめぐってきましょう。
椿井城跡跡西麓には、ふたつの春日神社があります。

まずは、平等寺春日神社。

平等寺春日神社は、平等寺集落の東側山裾にあり、平等寺・下垣内の氏神です。
この二大字は本来は一つだったと考えられているそうです。
祭神は、天児屋根命(天児屋命)。
境内には多くの石灯籠が奉納されており、延宝5(1677)年が最も古いものです。

朱色の二の鳥居の向こうの石段を登ると、本殿があります。

本殿は極彩色の春日造り。

本殿の左側に祀られる境内社二社。

割拝殿です。

割拝殿の両側には絵馬が数枚奉納されています。

左奥には、文久元(1861)年に下垣内の氏子中より奉納の「なもで踊り」絵馬があります。

そして、もうひとつの春日神社、椿井春日神社です。
椿井城の登山口のすぐ近くに鎮座します。
祭神は平等寺春日神社と同じく天児屋根命(天児屋命)。

割拝殿です。

こちらの割拝殿にも、絵馬が複数飾られています。

「平群氏春日神社沿革記」と題する由緒書があります。
「平群氏ハ天大吉備諸進尊ヲ祖トスル」から始まり、読み進めていくと、「景行ノ朝 堤原王ハ武内宿祢ノ養子トナリ 勅命ニヨリ平群ノ姓ヲ賜リ二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀)ハ聖徳太子ニ従イ守屋氏ヲ討チ以テ氏寺平群寺ヲ勢益原丘ニ創建ス」とあります。
蘇我氏が物部氏を滅ぼした用明天皇2年(587年)7月の丁未の乱のことですね。
椿井氏の祖先と伝えられる平群神手将軍は、聖徳太子に従って蘇我軍に付き、物部氏を討ったようです。
ほかにも、「大海人皇子(天武天皇)」とか「壬申ノ乱」とかも出てきますね。
壬申の乱とは言うまでもなく、天智天皇の皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)と天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)のふたりが皇位を争った古代日本最大の内乱ですね。
同じく椿井氏の祖先と伝えられる直広隅は、壬申の乱では大海人皇子に仕えていたそうで、
その出陣に先立ち「神前ノ井戸ニ椿ノ木ヲ挿シ戦勝ヲ祈願ス」とあります。
その軍功によって「椿井」姓を名乗るようになったとあります。
その後、いっきに戦国時代に進み、「戦国時代ニ織田信長ノ兵火ニヨリ灰燼トナル」とありますね。
また、後半部分には、「五十七代椿井中納言氏房ハ実ハ征夷大将軍藤原頼経ノ三男ナリ」として、その氏房が、「弘安5年6月2日菊桐ノ御紋ヲ賜シ、伊賀、大和、河内、安房、四ヶ国ノ太守トシテ勅贈正二位大納言トナリ当村ニ椿井城ヲ築城セリ」とあります。
弘安五(1282)年に大納言になった椿井氏房という人が椿井城を築城したとのこと。
どういう史料からの情報かはわかりませんが、たぶん、椿井氏の家譜とかにそういう伝承があるのでしょう。

春日造の本殿です。

割拝殿の横に、椿井城登山口にあった武将キャラの看板があります。
その説明書きには「大井手用水」とあります。
椣原領の竜田川から平群谷を縦断して椿井に至る長さ3.3kmの用水路だそうで、開削は平安後期ですが、室町後期に上庄の庄屋の娘が椿井の島左近に嫁ぐ際、水利権を化粧水として持参したといわれているのだとか。
その水利権は近年まで椿井にあったそうです。

椿井だけに、椿の木がありました。

花がたくさん咲いています。

その椿の下にも、また武将キャラの看板が。

その説明書きには、椿井春日神社の由緒が書かれています。
それによると、椿井春日神社は平群氏やその子孫の椿井氏ゆかりの神社とされ、椿井氏が南山城に去ったのち、血縁関係にあった下川原氏が管理していたとあります。

さて、2つの春日神社を参拝しましたが、もう少し椿井城西麓を歩きます。
次稿につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-07-01 03:53 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)