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椿井城跡西麓を歩く。 その2 <宮山塚古墳と椿井井戸>

前稿のつづきです。

椿井春日神社の鳥居の横に、古墳があります。


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宮山塚古墳という名称だそうです。


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形状は円墳ですね。

古墳前に説明板が設置されています。


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説明書きによると、東西26m、南北24m、高さ7.1mの円墳で、主体部は南に開口する古式の横穴式石室で、玄室は長さ4.2m、幅2.9m、高さ3.2だそうです。

特殊な石室構造より5世紀後半~末頃の築造と考えられているそうで、近畿地方の導入段階の完存する横穴式石室として貴重な存在だそうです。


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石室の開口口はが設置されて南京錠がかけられています。

こうでもしないと、中に入るバカなやつがいるんでしょうね。


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墳丘は東側の椿井城へ登り口への登り口施設に取り込まれ、また、墳頂部が平坦に削られており、墳丘が方形に加工され、墳丘北東には土塁が築かれているそうです。

そういえば、椿井城登山口から登り始めてすぐにも、宮裏山古墳という名称の古墳がありましたね。

この2つの古墳は、なにか関係があるのでしょうか?


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宮山塚古墳の少し南に、椿井井戸という名称の古井戸があります。

この井戸には、椿井氏の祖先と伝えられる平群神手将軍と聖徳太子の逸話が伝えられています。

説明板によると、物部守屋を征伐する際に苦戦した神手将軍が、この地にを突き立てて戦勝を祈願すると、一夜にして杖が芽吹いて葉が繁り、傍らから冷泉が湧き出し、汲めども尽きなかったそうです。

これは戦いへの瑞祥であると喜んだ神手将軍と厩戸皇子(聖徳太子)は、この水を飲み、兵士たちにも振る舞ったところ士気が大いに上がり、守屋との戦いに大勝することができたそうです。

これは蘇我氏物部氏を滅ぼした用明天皇2年(587年)7月の丁未の乱のことですね。

崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が、仏教を信仰するか否かで争った戦いです。

「その1」で紹介した椿井春日神社の由緒書に、「景行ノ朝 堤原王ハ武内宿祢ノ養子トナリ 勅命ニヨリ平群ノ姓ヲ賜リ二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀)ハ聖徳太子ニ従イ守屋氏ヲ討チ以テ氏寺平群寺ヲ勢益原丘ニ創建ス」とありましたが、そのときの逸話です。


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また、同じく椿井春日神社の由緒書には、天智天皇の皇子・大海人皇子(のちの弘文天皇)と天智天皇の弟・大友皇子(のちの天武天皇)のふたりが皇位を争って戦った壬申の乱の際、同じく椿井氏の祖先と伝えられる直広隅は大海人皇子に仕えていたそうで、その出陣に先立ち「神前ノ井戸ニ椿ノ木ヲ挿シ戦勝ヲ祈願ス」とあります。

その軍功によって「椿井」姓を名乗るようになったとありますが、その井戸も、あるいはこの椿井井戸のことかもしれません。


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井戸の横の石碑は、文政 4 年(1821)の建立だそうです。

200年前の石碑ですから、これも立派な史跡ですね。

椿井井戸は今も清水が湧いているそうです。


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さて、椿井城西麓の史跡をめぐってきましたが、椿井城から1kmほど西に、同じく島左近の城だったと伝わる下垣内城(西宮城)ありました。

次稿はその城跡を訪ねます。




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by sakanoueno-kumo | 2022-07-02 22:12 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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