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若狭の海城、小浜城跡を歩く。 その3 ~本丸石垣~

「その2」のつづきです。

天守台から降りてきました。


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「その2」で天守台の上から見た本丸西側の多門櫓台石垣を内側から見た写真です。


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石段はのぼっちゃだめみたいでした。


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多門櫓台石垣と天守台石垣の接続部分。


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多門櫓台石垣の切れ目があります。

おそらく、ここは本丸から西の丸に向かう門だったのでしょう。


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古い図面によると、ここは埋門という門だったようです。


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門を出ましょう。

今は向こうに西の丸ではなく民家が見ます。


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埋門の外に出てきました。

手前の石垣が多門櫓、右奥に見える石垣が天守台石垣です。


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接続部分の入隅


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天守台の出隅石垣算木積みになっています。


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真下から見上げた天守台石垣


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下から見た天守台南西出隅石垣

さっき天守台上から見た出隅です。


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実に見ごたえがあります。


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天守台と民家の間はこれだけしかありません。


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石垣に沿って本丸南側外周を歩きましょう。


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天守台南東の出隅です。


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民家と石垣の間には、黒いゴムの導線が敷かれていました。

わたしのような城マニアが歩き回るからでしょうか?



東側から見た天守台石垣と接続部分。


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こんな感じで本丸外周を今も石垣が囲っています。


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本丸跡南東隅に出てきました。

「その1」で紹介した鳥居の左側の石垣です。


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小図面によると、ここ南東の隅櫓は蜘蛛手櫓と呼ばれていたようです。

本丸には、天守の他に7基の櫓があったそうです。


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蜘蛛手櫓に登りたかったのですが、ここも立入禁止でした。


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蜘蛛手櫓の横に小さな地蔵堂があります。


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その由来記によると、この地蔵は「組屋地蔵」と呼ばれ、小浜城築城のとき人柱となったを供養するために祀られたとあります。

京極高次・忠高時代の小浜城築城に際して、難工事が予想されたため、その建設に携わっていた豪商・組屋六郎左衛門の娘が人柱として生き埋めにされたそうです。

ところが、小浜城建築は遅々として進まず、京極氏に代わって譜代の酒井忠勝が小浜藩主となっても、まだ城は完成していませんでした。

それどころか、本丸の蜘蛛手櫓近くで夜な夜な女の忍び泣く声が聞こえるという噂がたち、それを聞いた家老の三浦帯刀が、かつてその場所に組屋の娘が人柱として生き埋めにされたことを知り、その娘の供養にと地蔵を造り、本丸守護のために櫓のそばに置いたそうです。

ところが、寛文2年(1662年)に起こった大地震で本丸の石垣が崩れ落ち、その修復工事の最中に組屋地蔵の行方がわからなくなっていたそうで、それが、時代は下って昭和28年(1953年)の風水害によって再び石垣が崩れ、その修繕工事が始められた昭和34年(1959年)に石垣の中から一体の地蔵が発見されたそうです。

その地蔵に組屋の家紋が刻まれていたことから、これが伝承の組屋地蔵であると判明し、かつて安置されていた蜘蛛手櫓のそばに堂を建てて祀られるようになったのだとか。

人柱伝説のある城はたくさんありますが(たとえば島根県の松江城や福井県の丸岡城、皇居となっている江戸城にもあります)、どこまでが実話かは定かではありません。

でも、家紋入りの地蔵が出てきたとなれば、信憑性は高まりますね。

もっとも、娘のすすり泣く声という伝承は、よくある話ですが(こういう場合、中年のオッサンのすすり泣く声の伝承はまずありません、笑)。


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こちらは本丸北東隅の石垣。

これも「その1」で紹介した鳥居右側の櫓台石垣ですね。


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本丸北側も石垣が続いていますが、民家と密接していて歩けませんでした。


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本丸北側の多田川

この川がかつて北川と言われ、小浜城の外堀の役目を果たしていたようです。


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明治維新後の火災によって建物類のほとんどが焼失し、その後、焼け残った天守が解体された際に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸はすべて埋め立てられたため、現在は本丸跡のみが現存する小浜城。

その後、明治8年(1875年)に本丸跡に酒井忠勝を祀る小浜神社が建立され、昭和31年(1956年)に福井県指定史跡となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2022-07-30 10:20 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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