鎌倉殿の13人 第32話「災いの種」 ~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~
比企の乱によって幕府内の権勢を手中にしたかに思えた北条でしたが、想定外の事態が発生します。危篤状態にあった源頼家が、奇跡的に回復したんですね。比企一族の滅亡、千幡の鎌倉殿擁立は、すべて頼家が亡くなるという前提で行われたものであり、頼家の蘇生に北条時政をはじめとする北条派がうろたえたのは想像に難しくありません。
『吾妻鏡』によると、頼家が事態を知ったのは、比企一族の壊滅から3日後の建仁3年(1203年)9月5日のことだったといいます。当然のごとく激怒した頼家は、ひそかに時政追討を和田義盛と仁田忠常に命じました。しかし、義盛は思慮の上、これを時政に内報します。ところが、忠常は対応をためらっているうちに、北条義時に命令された加藤景廉によって殺害されました。一方、『愚管抄』には、忠常は義時と闘って討たれたとあります。ドラマでは、北条と頼家の間で板挟みとなって悩んだ末に自害という設定でしたね。ここはドラマのオリジナルだと思います。また、ドラマでは描かれていませんでしたが、『保暦間記』『北条九代記』によると、忠常は頼家の嫡男・一幡の乳母父のひとりだったとも伝わります。だとすると、頼家の乳母父だった比企能員亡きあと、その子・一幡と頼家を支持する可能性のある忠常を北条が殺したということかもしれませんね。忠常に能員を殺させて、その後、今度は忠常を殺す。北条、あくどい!
その一幡の最期についてですが、『吾妻鏡』によると、比企一族が滅ぼされた際に一幡と若狭局も共に焼死したといい、翌9月3日、焼亡した小御所跡に赴いた大輔房源性が、乳母のことばに基づいて一幡の遺骨を拾い、高野山奥院に納めたといいます。ところが、『愚管抄』の記述はかなり違っていて、一幡は合戦の前に乳母に抱かれて小御所を出たといい、それから約2か月後の11月3日、「ツイニ一萬若ヲバ義時トリテヲキテ、藤馬ト云郎等ニテサシコロサセテ、ウゾミテ」しまったとあります。つまり、難を逃れて潜んでいた一幡を、義時が探索して藤馬という郎等に殺させた、と。これについては、『武家年代記裏書』という史料にも、「乳母これ(一幡)を懐抱して逃れ去るか」とあり、さらに「十一月三日、義時の使い藤馬允、一万公を誅しおわんぬ」とあって、『愚管抄』の記述とほぼ一致するところを見ると、『愚管抄』の伝えるところに信憑性を求めていいかもしれません。ドラマも、『愚管抄』ベースで描かれえていましたね。一幡を殺した(と思われる)トウは藤馬からとった名前でしょうか? 善児が柄にもなく一幡の殺害を拒んだのは、単に情だけが理由だったのでしょうか? 予告編では、次週、善児が北条宗時を殺害したことが露見するようですね。善児は架空の人物ですが、そろそろ退出が近づいているのでしょうか?
鎌倉での政変の報は、当然、リアルタイムで京の都にも届いていました。いや、むしろリアルタイム過ぎるといえました。比企一族が滅亡したのが9月2日。ところが、京の後鳥羽上皇のもとには、遅くとも9月7日朝にはその報せが届いていたようです。しかもその内容は、「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」というもの。報せを受けた後鳥羽上皇は、9月7日、千幡を従五位下・征夷大将軍に補任し、「実朝」という名乗りを与えました。鎌倉幕府三代将軍・源実朝の誕生です。ところが、実際には頼家は死んでおらず、誤報だったわけですね。当時の交通事情を考えると、7日朝に鎌倉から京に報をもたらすには早馬でも3、4日はかかったはずで、北条は比企を滅ぼしてすぐか、あるいはその前に使者を送ったと考えられます。しかも頼家が死んだという誤報も誤報ではなく、死ぬ予定として見切り発車した虚報だったのかもしれません。ところが、予定はあくまで予定であって、予定通りに運ぶとは限らないんですよね。
こうして見ると、比企の乱から実朝政権発足までは、すべて北条の陰謀の歴史のように思えますが、ただ、頼家が危篤状態となったことは北条のせいではないわけで、すべてが北条の仕組んだことだったわけではなかったでしょう。頼家が死ぬと思ったからこそ、一幡に跡を継がれると幕府内での権力が低下すると考えた北条は、比企討伐に踏み切り、千幡擁立を進めた。北条の目的はあくまで比企討伐であり、頼家の追い落としではなかったんですね。ところが、頼家が奇跡的に回復した。これは北条としては想定外だったでしょう。比企を滅ぼし、千幡を擁立した時点で、頼家が蘇生しても、もう取り返しがつきません。
9月21日、頼家の鎌倉追放が決定。29日に伊豆国修禅寺に護送されました。実朝政権が発足した以上、頼家に鎌倉にいてもらっては困るんですね。もっと言えば、頼家にこの世にいてもらっては困る。
「頼家様が息を吹き返す前に戻す。それしか道はない」
次週、義時の言葉どおりの結末になります。
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by sakanoueno-kumo | 2022-08-22 19:33 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(2)
現代人からしたら孫を殺したり、こんなこと平気で
するかなー?ですがあの時代はアリだったのですね。
どうだったでしょうね。
殺し殺されということが日常茶飯事にあった時代ですし、現代の犬猫のように、人の死骸が道端に転がったまま放置されているような光景も珍しくなかったでしょうから、人の死に対しては、現代のわれわれより何十倍も何百倍も薄情だったのは確かでしょうね。
肉親の情も、現代の私たちと違って親子がひとつ屋根の下で暮らして親が育てるという時代ではなかったですから(身分の低いものはそうでしたが)、親子や兄弟の情も薄かっただろうと想像できます。
ただ、男はそうだとしても、母親はやっぱり母性があったんじゃないかと思いたいですけどね。
本文中では述べませんでしたが、学者さんたちの間では、比企一族の襲撃から一幡の殺害、そして頼家の追放は、すべて政子が主導して義時や時政を動かしたのだろうといのが共通の見方になっているようです。
頼家が病に倒れた時点で、幕府の最高権力者は前将軍御台所であり将軍生母の政子であり、もし一幡が跡を継ぐことになると、最も権力を失うのが政子であるという観点からの推論です。
こののち政子がもう一人の孫の善哉に必要以上の情をかけるのも、その罪滅ぼしからだと。
でも、理屈でいえばそうかもしれませんが、実の息子、実の孫ですからねぇ。
わたしは学者ではないので、政子主導というのは、感情的にどうも納得できません。
ドラマでも、政子の意には反して義時が主導するという設定でしたよね。
たぶん、三谷さんもわたしと同じ思いだったんじゃないでしょうか。