鎌倉殿の13人 第33話「修善寺」 ~時政の執権就任と頼家の最期~
源頼家が伊豆国修禅寺に送られたあと、鎌倉幕府の実権は北条時政が掌握しました。三代鎌倉殿となった源実朝は、建仁3年(1203年)9月10日、北条政子の御所から時政の名越邸に移ります。実朝は12歳。まだまだ少年だった実朝は、時政と牧の方(ドラマではりく)夫婦によって扶育されることになりました。ところが、ドラマでは描かれていませんが、わずか5日後の9月15日、阿波局(ドラマでは実依)が牧の方を母親代わりにすることの不安を政子に訴え、実朝は再び政子の御所に連れ戻されます。何があったのかはわかりませんが、そもそも牧の方と政子らはいい関係ではなかったようですからね。時政は慌てて弁明したようですが、聞き入れられず、実朝は成人するまで政子が養育することになったといいます。
そんなトラブルはあったものの、以後の幕政を主導したのは、将軍の祖父である時政でした。10月8日に名越邸で行われた実朝の元服の儀と翌日に行われた政所始めの儀式では、時政は大江広元と共に別当として着座しています。時政が政所始めの総責任者でした。
一般に、北条時政は鎌倉幕府の初代執権に就任したとされています。以後、執権職は代々北条が世襲していくことになりますが、実は、鎌倉時代の史料で時政を「執権」と明記したものは存在しません。この時代に「執権」という役職があったかどうかも定かではなく、2代執権とされている北条義時ですら、執権に就任したかどうかは解釈がわかれます。執権という役職が確立されるのは、北条泰時の時代から。そもそも、時政の持っていた権限と、泰時以降の執権の持つ権限とは違っていて、泰時以降の執権は将軍を補佐する常設の役職となりますが、時政の権限は、あくまで幼少の将軍の職務を代行しているということに過ぎず、将軍代行ということで権限は絶大ですが、実朝が成長すれば返さなくてはならない一時的な権限でした。しかも、上述した実朝の養育権をめぐってのトラブルから見ても、実朝を動かす力があるのは生母の政子であり、時政はその権限を預かって行使しているだけということがわかります。時政の権限というのは、実はそうした不安定なものだったようです。
話は変わって、伊豆国修禅寺に幽閉された頼家の生活は、つらく寂しいものだったようです。『吾妻鏡』によると、修禅寺に送られて1ヵ月半後の11月6日、頼家は母・政子と弟・実朝に宛てて、「深山の幽栖、いまさら徒然を忍び難し」としたため、以前仕えていた近習の者たちをこちらに来させてほしいと求める書状を送りました。また、ドラマでもあったように、安達景盛を処分したいから修善寺に連れてきてほしいとも要求しています。しかし、これらの望みはすべて否定され、以後、書状を送ることさえ禁止されました。使者として派遣された三浦義村が帰参して頼家の様子を報告すると、政子は「頗る御悲歎」したと、『吾妻鏡』は伝えます。
そして、翌年の7月18日、頼家は修禅寺でその生涯を終えました。その死を慈円の『愚管抄』はこう伝えます。
「元久元年七月十八日ニ修禅寺ニテ又頼家入道ヲバサシコロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ、頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ」
「フグリ」とは睾丸のことだそうです。頼家は首に紐をかけられ、局部の睾丸を抑え込まれて刺殺された、と。何ともおぞましい凄惨な暗殺だったことがわかります。刺客を差し向けたのは、北条とみていいでしょう。おそらく時政、そして義時ですね。政子が頼家暗殺に関与していたかどうかはわかりません。ただ、修禅寺に送られてから殺されるまでに1年もの月日が経っていることを思えば、ドラマのように、時政、義時らも迷っていたのでしょう。あるいは政子が命乞いをしていたのかもしれません。政子はなんとか頼家を生かそうとしていたと信じたいですね。
ちなみに、『吾妻鏡』には、「酉の刻、伊豆国の飛脚参着す。昨日(十八日)左金吾禅閤(年二十三)、当国修善寺に於いて薨ぜしめ給うの由これを申す」と、冷淡に記されているだけです。
頼家は最初から難しい立場の将軍だったといえます。そもそも、若くして偉大な先代の跡を継ぐことになった二代目というのは、いつの時代でも困難な立場に立たされるもので、ましてや頼家の場合、彼が受け継いだのは日本史上初めての本格的な武士政権でした。朝廷との関係にしても、有力御家人たちとの関係にしても、先代の頼朝ですら完全に掌握していたとはいえなかったものを、若い頼家には荷が重すぎたといえるでしょう。頼朝があと10年生きていたら、頼家の運命は大きく変わっていたかもしれません。不遇な生涯だったといえるでしょうね。
話をドラマに移して、頼家の最期は壮絶でしたね。頼家の死に様が『愚管抄』のような無様な最期ではなく、かっこよく戦って死ねてよかったですね。そして善児。架空の人物の最期が、まさかこんなに劇的に描かれるとは思っていませんでした。頼家との激闘中、「一幡」と書かれた札を見て一瞬ひるんだところで頼家の太刀を浴びてしまう。そして、とどめを刺したのがトウ。サイコパスの善児が、生涯にたった2人だけ情をかけたのが一幡とトウ。その二人によって命を落とすことになったというのは、なんとも皮肉な話です。「ずっと待っていた、この時を」とトウが言ったとき、瀕死の善児はかすかに頷いていましたね。善児も、いつかこの日が来ることをわかっていたということでしょうか? 多くの人の命を冷淡に奪ってきたアサシン善児ですから、その死は非情で残酷なものでなければならない。とすると、トウもいずれは・・・。今後の展開が楽しみです。
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by sakanoueno-kumo | 2022-08-29 19:53 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(6)
坂東武者はともかく、何で後鳥羽上皇まで標準語なんですかね。
京都側は関東側と異質であることを印象付けるためにも、京都弁でいかはったらよろしおすのに。

フグリ説が出てこなくて残念(笑)
あのアサシントウは誰の娘なのでしょうか?
トウはこれで敵を討ったのだからだれか素敵な人と
ご結婚でもされて幸せになって欲しい って甘い?
長~~い間ですね(笑)。
フグリ説はNHKでは、てかテレビでは出来ません(笑)。
トウが誰の娘かわかっていない人、けっこういるのに驚きました。
同じ質問をSNSでも複数の人から聞かれました。
え~っ!わからずに見てたの~!みたいな。
第24話の最期に蒲殿が善児に殺されたとき、一緒にいた百姓夫婦も殺されましたが、その一部始終を見ていた幼い少女がいたの覚えていません?
善児はその少女も殺そうとしましたが、なぜか躊躇した。
あの少女がトウです。
その後、出てきたときは大人になっていましたから、成長過程は描かれていませんが、おそらく善児に育てられたという設定でしょう。
トウは両親を殺された恨みを忘れてはいなかった。
でも、善児に育てられた情もある。
それが、あの複雑な感情のシーンになったのでしょう。
このあとトウがどのように物語に絡んでくるか楽しみです。
ひょっとしたら、最終回、義時を殺すのかも。

ちなみに善児を演じた梶原善さん…すっかり殺し屋のイメージが定着してしまいまして,民放の警察ドラマなどに出演が決まると視聴者の間では真っ先に「最有力容疑者」と認定されるようになったのだとか(笑)…まあ,プロの俳優さんとしてはある意味たぶんに「おいしい」状況なのかもしれませんが…。
たしか『三姉妹』ですよね。
以前、大河ドラマアーカイブの特集で少し見ました。
さすがに『三姉妹』は、わたし赤ん坊だったため知りませんが、昭和55年の『獅子の時代』も、架空の人物が主人公だったはずです。
当時、わたしは中学生だったので、架空の人物だとは知らなかったですが。
あと、昭和期を描いた『山河燃ゆ』とか『いのち』も、架空の人物が主人公だったと記憶しています。
あっ、あと少年隊の東山くんがやった『琉球の風』も架空の人物が主人公でした。
他にもあるかもしれません。
けっこうありますね。
わたしは、架空の人物は否定しません。
要は、いかにその時代を描くかが、大河ドラマのいちばんのポイントかと。
その時代の人々が何を思い、何に悲しみ、何に喜び、何を目的に生きていたか・・・。
そこに現代の価値観を入れると、架空であろうと実在であろうと駄作になります。
何度もいいますが、戦のない世を作るために戦う・・・このスローガン自体、あり得ないですからね。
その点、鎌倉殿のスローガンは、義時の兄の宗時が死ぬ間際に弟に行った言葉。
西に支配されない坂東武士の国を作り、そのてっぺんに北条が立つ!
なんとわかりやすいスローガンでしょう。
これですよ、これ。
三谷さんのすごいところは、こういうところなんですよね。