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鎌倉殿の13人 第35話「苦い盃」 ~北条と畠山の対立~

 源実朝の結婚相手を迎えにいくため上洛していた北条政範北条時政牧の方(ドラマではりく)の息子)が急逝するという悲劇に見舞われたものの、御台所鎌倉下向の準備はつつがなく進みました。『吾妻鏡』によると、元久元年(1204年)1120日、平賀朝雅の屋敷において酒宴が催されました。ところが、この宴席で朝雅と畠山重保とのあいだで口論があったといいます。その場は周囲の者がとりなしたため大事にはいたらなかったものの、これが後の大事件の伏線となります。口論の内容はわかっていませんが、ドラマでは、ここに政範の急死をからめていましたね。毒殺云々は三谷さんの創作ですが、なかったともいえません。いつもながら、脚本が秀逸です。


鎌倉殿の13人 第35話「苦い盃」 ~北条と畠山の対立~_e0158128_18070729.jpg 翌元久2年(1205年)6月、平賀朝雅は姑である牧の方を通じて「畠山重忠に謀反の疑いあり」と時政に讒訴しました。畠山重忠はいうまでもなく重保の父親で、この朝雅の讒訴は、前年の京での重保との口論の遺恨が根底にあったようです。溺愛する牧の方に頼まれた時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意し、息子の北条義時、時房に計画を打ち明け、その可否を聞きます。しかし、二人は、これに賛同しませんでした。曰く、畠山重忠は源頼朝から厚い信頼を受けていた忠臣であり、頼朝の死後も、比企の乱の際には北条方について活躍してくれた。その忠節を思えば、何の憤りをもって謀反を企てることがあろうか。これが誤りなら、あとあと必ず後悔することになるだろう。決して軽はずみに動くべきではない、と、時政の軽挙を諫めたといいます。このあたりは、ドラマのとおりですね。


 『吾妻鏡』の記述だけでいえば、事件の原因は平賀朝雅と畠山重保の口論による怨恨にあったとしていますが、事件のきっかけはそうだったかもしれませんが、それ以前から、北条と畠山の関係は微妙だったといえます。


 鎌倉殿の13人 第35話「苦い盃」 ~北条と畠山の対立~_e0158128_20313133.jpg畠山氏は坂東八平氏のひとつである秩父氏の嫡流で、重忠は武蔵国留守所検校職を保持する武蔵武士の代表格でした。頼朝の死後に発足した十三人の合議制のメンバーには選ばれていなかったものの、おそらくそれは若輩だったからであり、幕府の有力御家人であったことは間違いありません。武蔵国は幕府にとって最重要の地でした。畠山が比企の乱の際に北条に味方したのは、重忠が時政の娘を妻に娶っていたからという理由もありましたが、畠山と比企の領地が隣接していて、両者は北武蔵の支配権をめぐって対立していたからでもありました。重忠が比企攻めに積極的に与したのは、そういう利害もあったわけです。ところが、比企が滅亡したことで、事情が変わってしまいます。比企が滅んで空白地帯となったところに、北条が進出してきたからです。


 当時、武蔵守は時政の娘婿である平賀朝雅でした。時政は朝雅を通じて武蔵国を支配しようとし、朝雅が京都守護に任じられて武蔵国を離れることになると、時政は武蔵の御家人たちに北条に忠誠を尽くす旨の起請文を提出させています。しかし、時政にとって、武蔵国を支配するには邪魔な存在がいました。すなわち、武蔵国留守所検校職を保持していた畠山重忠でした。平賀朝雅と畠山重保の間に起きた口論も、おそらく武蔵の支配権による対立が根底にあったからでしょう。時政が畠山討伐を企てたのも、決して『吾妻鏡』が伝えるように溺愛する牧の方の言いなりになっていたわけではなかったのではないかと。


 ネタバレになりますが、結局、北条と北畠は衝突することになります。『吾妻鏡』では、時政、牧の方の再三の畠山討伐の命令にとうとう折れることになる義時ですが、ドラマでは、朋友重忠との戦いにどのような心境で臨むことになるのか、次回が楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2022-09-12 18:15 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)  

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