現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その9 <大池~番所・切通>
「その8」のつづきです。
大松山城の東側には、備中松山城の水源となっていた大池があります。
大池は発掘調査中だったため、ロープの中には入れませんでした。
大池は大松山城と天神の丸の間の谷部(標高443m付近)に築かれた総石垣の池です。
地元では「血の池」や「首洗いの池」と呼ばれ、刀や首を洗ったとの逸話が伝わっているそうです。
大池周辺では平成16年(2004年)の台風により周囲の木が倒れ、その後、その根が残されていたため、平成28年(2016年)から環境整備が実施され、それに合わせて池の構造把握などを目的として発掘調査が行われているそうです。
だから、石垣が綺麗なんでしょう。
整備前は、きっともっと苔むして古めかしかったでしょうね。
池の構造は長辺23m、短辺10m、深さ4.3mの長方形で、石の積み方や使用石材の種類から、何回にも修理されながら使用されてきたことがわかったそうです。
このあたりの曲輪にも、石積みがあったようですね。
ここまで来たら、備中松山城最北端まで足を伸ばしましょう。
北に向かって山道を下ります。
切通および番所まで100mとあります。
上には、備中松山城まで700mとありますね。
ここまで来たのはいいけれど、またこの道を帰らないといけないと思うと、ちょっとゲンナリしますが・・・。
来ちゃったものは仕方がない。
何やら草むらのなかに石碑が立っています。
「番所跡」と刻まれています。
その上に目をやると、立派な石垣が!
おおっ!!
苔むした石垣がいい感じ。
でも、藪が深すぎて、あそこまで登れそうにはありません。
草に埋もれてわかりづらいですが、石垣の下は削平地が数段に分かれています。
さらに北側に下ると、大きな堀切があります。
石碑には「切通堀切」と刻まれています。
その切通堀切。
でかい! 深い!
切通堀切に架かる土橋です。
その切岸には石垣が残っています。
ここまで来てよかった~!!
高梁市のホームページによると、ここの番所と切通堀切が築かれたのは比較的新しく、幕末の動乱期だったといいます。
幕末の備中松山城藩の藩主は、幕府老中を務めた板倉勝静で、藩の執政は学者の山田方谷でした。
勝静か方谷、どちらかが作らせたものかもしれませんね。
勝静が老中として15代将軍・徳川慶喜から厚い信任を受けていたため、戊辰戦争で備中松山城藩は朝敵とされました。
一時は新政府から指令を受けた岡山藩の征討軍に城は包囲されますが、山田方谷の英断によって明治新政府に恭順の意を示し、備中松山城は無血開城となりました。
もし、このとき徹底抗戦の道を選んでいたら、備中松山城は戦火に遭い、現存12天守は11天守になっていたかもしれません。
だって、方谷の弟子である越後長岡藩家老の河合継之助は抗戦の道を選び、長岡城は焼け落ちてますからね。
紙一重です。
備中松山城は有名な城郭なので、小松山城の現存天守までは多くの観光客でにぎわっていましたが、ここまで足を運んでいたのはこの日はわたしだけでした。
でも、せっかく来たのなら、ここまで来ないとね。
そのためには、もう少し整備してほしい気もしますが。
人には全く会いませんでしたが、思わぬ出迎えがありました。
野生の猿です。
びっくりしましたが、向こうも驚いていた様子でした(笑)。
城跡はここで終わりですが、近くに大松山吊り橋があったので、渡ってみました。
大松山吊り橋からの眺望です。
さて、大松山城から小松山城の大手門まで約30分かけて戻ってきました。
最後にもう一度、大手門石垣群を眺めて帰ります。
「その2」で紹介したロケーションは午前11時ごろ、この写真は午後3時ごろです。
太陽の光の当たり方が違うと、また違った見え方になりますね。
ずっと眺めていたかったですが、そろそろ下山します。
「本日の登城、大儀であった」
・・・恐悦至極に存じます(笑)。
最後に、御城印と日本100名城のスタンプを載せます。
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by sakanoueno-kumo | 2022-10-14 17:30 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)