方谷駅(山田方谷旧宅及び長瀬塾跡)
前稿でJR伯備線の備中高梁駅前にある山田方谷像を見に行きましたが、備中高梁駅から3駅北上したところに、「方谷駅」という名称の駅があります。
その名のとおり、山田方谷の名からとった駅です。
かつてこの地には山田方谷の屋敷がありました。

方谷駅の駅舎は、現在、国指定の登録有形文化財になっています。
方谷駅駅舎は昭和3年(1928年)に倉敷と伯耆大山との間で全線開通したJR伯備線に併せて建設されました。
当時、鉄道省は駅名を地名である中井、西方、長瀬の中からと考えていたそうですが、地元の住民たちの請願により、名づけられた駅名だそうです。
その際、人名を駅名にしたという実例がなかったことから、「方谷」というのは西方の谷のことで人名ではないとの建て前で名づけられたのだとか。

作家の故・司馬遼太郎氏が、小説『峠』を書くにあたって、ここ方谷駅を訪れています。
そのときのことを小説の中で語っているので、ちょっと長いですが抜粋します。
現在は、この山中を伯備線が通っている。伯備線は昭和三年に開通したが、開通して半世紀ちかくなるのにいまなおこの付近には人家がなく━━つまり人間の居住には適せず、まわりの景色は継之助が訪ねたときとほぼかわらない。
ただ、駅舎がある。
駅舎は、方谷の開墾屋敷の敷地に立っている。
「めずらしい駅でございますよ」
と、筆者が訪ねたとき、駅長さんがストーブのそばで語ってくれた。
「駅のそばに村がありません。こんな駅は全国でもまれだとおもいます」
人間の集落というのはここから奥へ六キロの山中にある中井までゆかねばないという。あとは狐か狸でも住んでいるのであろう。ところが朝夕の乗降客はわりあいに多い。それぞれ奥地から出てきて、この無村駅(といっても駅前に自転車をあずかってくれるような店が十二軒あるが)にあつまるのである。
「なぜ、駅ができたのですか」
「地元の請願の結果でございますよ」
この駅が、いわばこの付近の山家や山村の玄関になるのであろう。
━━玄関口に村がなくても玄関は玄関です。駅ができればどれだけ山里が文明の利に浴しますか。
というのが、請願の理由であった。
駅名を、
「伯備線方谷駅」
という。いかに方谷がここに居たからといって人名を駅名にする例はない。日本ではここだけであるという。この駅名も、地元の請願であった。鉄道省は当然反対した。
━━人名は駅名にならない。
というのが、その理由であった。しかし地元は大いに運動した。山田方谷という学者がいかに偉大であったかということを説いたが鉄道省ではその名を知らなかった。
地元では、
━━三島中州
という名をもち出した。この人物はすでに大正八年、九十歳で死亡していたが、盛名は昭和に入っても全国に知られていた。維新後の漢学会の巨星であり、大正天皇の侍講であり、宮中顧問官であった。
━━その中州先生の先生が、山田方谷先生であります。
という説明で鉄道省も了解し、了解したが、先例は曲げられず「方谷は人名ではなく地名である」として命名された。
「谷間の駅でございますからね。太陽はわずかな時間昇っているだけでございます。冬は十時に陽が出て、二時すぎにはもう沈みます」
と駅長さんが言うような、そういう土地に方谷は住んでいた。

司馬さんがここを訪れたのは駅舎が出来てから約半世紀後のことで、現在はそれからさらに半世紀経っていますが、おそらく、当時と周囲のロケーションは変わっていないんじゃないでしょうか?
司馬さんが言う駅前の12軒のお店と思われる建物もまだ残っていましたが、スミマセン、写真撮っていません。
痛恨です。

駅舎にある説明板です。
駅名の由来のことも書かれていますし、小説『峠』の主人公・河井継之助がここを訪れたことも書かれていますね。

駅舎のなかです。
国指定の登録有形文化財ですから、一世紀近く前のままです。

手書きの看板がいいですね。
わたしらが子供の頃(昭和40年~50年代)は、まだ都会の駅でも看板は手書きでした。

大河ドラマ誘致運動の幟があります。

駅員さんの宿直室のような場所は、現在、資料室になっています。

資料室のなかです。

ホームに上がってみましょう。

藩主・板倉勝静の下で藩政を担って藩政改革を断行した方谷は、安政6(1859)年4月、勝静の許しを得て松山城下から約11km離れたこの地に移り住みました。
その理由は、自身が推し進めた土着政策を自ら実践するためだったといい、そのため、開墾屋敷ともいいます。
この開墾屋敷について、また小説『峠』から抜粋します。
方谷というひとはこの藩におけるこれほどの要人でありながら、その俸禄は下級侍程度しか受けず、それをもって財政と制度の大改革をした。みずからむさぼらぬために、家中の不平はすくなかった。
が、方谷は藩経済をすくうために藩士に開墾させる政策をとった。そのことが、不平を買った。開墾を命じられた連中が方谷を仇のように憎んだため、方谷みずからも開墾に従事し、不平を封じようとしているのだという。

方谷がここへ移住した同年7月17日、越後長岡藩士の河井継之助がここを訪れ、弟子入りを志願しました。
小説『峠』の主人公ですね。
方谷は半月近くをかけて継之助の人物を見定め、8月3日に弟子入りを許します。
以後、翌年の4月まで継之助は方谷に師事し、のちに長岡藩家老となった継之助は、方谷以上の藩政改革を断行し、長岡藩の財政を立て直すんですね。

継之助がここを訪れたときのシーンを、また小説『峠』から抜粋します。
継之助が山田方谷の開墾屋敷をたずねたのは、午前九時すぎであったろう。
━━まるで箱の底だ。
とおもったほど、まわりを山でとりかこまれた谷間の底にあった。その谷の最も深い底を、渓流が音をたてて流れている。
あたりに、方谷屋敷のほか人家らしいものはなく、要するに古来、人間が住んだことのない土地である。
(こんな谷間を、開墾できるのか)
無茶だとおもった。狭い河原のほかは平地というものがないのである。
(すこし、無茶だな)
おかしかった。報告は開墾政策で家中の人気が悪化し、居たたまれなくなってみずからをこんなところに流刑に処したとしか思えない。真相は自分を隔離することによって悪評の冷めるのを待っているのではあるまいか。

おそらく司馬さんはここを訪れた際、こんな谷底に屋敷を構えて開墾していたということに、よほど驚いたのでしょうね。
司馬さんが取材で高梁を訪れた際、地元の人が、「河井継之助の小説を書かれるのであれば、山田方谷の小説も書かれてはいかがですか?」と言ったところ、司馬さんは、「方谷は小説にはなりにくい人物だなぁ」と答えたそうで、その理由を問うと、司馬さんは少し考えて「うーん、どうも、方谷は偉すぎる。偉すぎて小説にならない。」と言ったというエピソードがあります。
それも、この谷底の屋敷跡を見たからかもしれません。

駅舎の西側には、「山田方谷先生旧宅 長瀬塾跡」と刻まれた石碑と説明板があります。
長瀬塾とは、藩政から退いた方谷が明治元年(1868)にこの地に開いた私塾のことで、ここで方谷は2年余り、後進の育成に従事しました。
長瀬塾には入門希望者が殺到し、翌年までに塾舎を6棟に増築しなければならないほどの盛況ぶりだったそうです。

方谷の死から40年以上が過ぎた大正9年(1920年)、山田方谷縁の人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れて屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てたそうで、昭和3年(1928年)、伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設したそうです。

話を幕末に戻して、山田方谷と河井継之助の師弟、どちらも低い身分からその能力を藩に買われて成り上がり、藩政改革を成功させたふたりでしたが、幕末の最終段階において、師弟の決断は明暗がわかれます。
備中松山藩主の板倉勝静が老中として15代将軍・徳川慶喜から厚い信任を受けていたため、戊辰戦争で備中松山城藩は朝敵とされました。
しかし、山田方谷の判断によって明治新政府に恭順の意を示し、備中松山城は無血開城となりました。
そのため、藩士と領民の命を救った方谷は、のちのちまで地元の民衆から慕われ、崇められ、こうして駅名にまでなりました。
一方の河井継之助は、戊辰戦争ではあくまで徳川家譜代藩の立場を崩さず、「武装中立」の立場を決断するもかなわず、徹底抗戦の道を選んで長岡は焦土と化し、多くの領民が命を失い、家を焼かれました。
そのため、継之助の墓碑が出来たとき、墓石に鞭を加えにくる者が絶えず、継之助を恨む者たちによって何度も倒されたと伝わります。
師弟のその後ははっきりと明暗が分かれてしまいました。

しかし、だからと言って、方谷の決断が「英断」で、継之助の決断が「愚断」だったかといえば、これは結果論に過ぎません。
戊辰戦争がはじまった時点では、どちらが勝つかはまだわからなかったわけですから。
紙一重ですね。
方谷は継之助を評して、「長岡藩では河井を抑える人がなかろう。どうも彼の男は豪ら過ぎる。彼の男を北国の辺りの役人にするには惜しい」と人に語ったといいますし、めったに人を褒めなかったという継之助も、「天下の英雄方谷先生に及ぶものなし」と評したといいます。
互いの人物を高く認め合った二人の師弟関係は、ここ長瀬のわずか数か月で培われました。
英雄が英雄を見るに、期間は関係なかったのでしょう。
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by sakanoueno-kumo | 2022-10-28 10:03 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)