鎌倉殿の13人 第46話「将軍になった女」 ~阿野時元の自害と三寅の東下、そして尼将軍政子の誕生~
日本史上にはいくつもの大きなターニングポイントがありますが、源実朝暗殺という衝撃的な事件も、そのひとつだったといえるでしょう。公暁という若干20歳の若者が犯した凶行は、歴史を揺るがすほどの重大な結果をもたらしました。当然のごとく幕府内には大きな動揺が広がり、御台所をはじめ、大江親広(広元の息子)、安達景盛、二階堂行村ら御家人100人余りが出家しました。
実朝の生前から親王将軍の下向の話が進みつつありましたが、それも実朝あっての話であり、この突然の将軍空位は、幕府にとって想定外の危機だったでしょう。公暁が将軍になろうとして凶行におよんだように、源氏の血を引く者たちが、同じように将軍の地位を狙って反旗を翻す危険性がないとも言い切れない。そしてその懸念通り、実朝の横死からわずか2週間ほどの建保7年(1219年)2月21日、実朝の従兄弟にあたる阿野時元が、軍勢を率いて阿野郡の山中に城郭を構え、朝廷より東国を支配する宣旨を賜ろうと企てているとの報せが鎌倉に届きます。時元は源頼朝の異母弟・阿野全成と、北条義時・政子の妹である阿波局(ドラマでは実衣)の間の子で、頼朝の実朝と公暁が死んだ今となっては、頼朝に最も近い血筋の存在でした。将軍となる条件は満たしていたともいえます。しかし、義時、政子はこれを謀反ととらえ、政子の名で追討命令が下されると、義時の差し向けた討伐軍によって瞬く間に挙兵は鎮圧され、時元は自害に追い込まれました。
一方、この事件、時元の謀反と伝える『吾妻鏡』に対して、『承久記』はこれを冤罪としています。このことから、実朝生前から進められていた親王将軍下向を継続して進めようとする義時と政子が、源氏の血統を絶やすために捏造したものだったという見方もあります。追手が差し向けられたことを知った時元が、やむなく挙兵したのではないかと。たしかに、実朝の死後わずか2週間で決起したかと思えば、たった1日で自害に追い込まれているところを見ると、最初から時元を亡き者にするために仕組まれた冤罪か、あるいは、この挙兵自体が『吾妻鏡』の作り話かもしれません。というのも、ドラマでは描かれていませんが、時元の死から約1ヵ月後の3月27日には、時元の兄弟で駿河の実相寺の僧侶となっていた道暁が何らかの理由で死に追い込まれ、また、翌年の4月15日には、源頼家の遺児で公暁の弟にあたる禅暁も、公暁に加担した嫌疑で誅殺されています。義時ら幕府首脳部が、源氏一族の将軍継承を嫌って粛清したことは間違いないでしょう。時元の挙兵が事実か冤罪かにかかわらず、やがて殺される結末は避けられなかったかもしれません。
ドラマでは、息子を次期将軍にという野望を抱いた実衣に背中を押されて挙兵するも、実はそれも義時が三浦義村を使って実衣をそそのかしていたという展開でしたね。ドラマとしては面白い設定でしたが、夫の阿野全成の死後の阿波局の記録はあまり残っておらず、このとき彼女が連坐の対象とされたかなどの記録もありません。ただ、嘉禄3年(1227年)に彼女が亡くなったとき、甥の北条泰時が30日の喪に服したとの記録があることから、義時と政子の死後も生きていたようです。頼家、実朝という二人の息子の非業の死に直面した政子の悲劇はよく知られていますが、阿波局も、夫と息子、そして養君を殺されるという悲惨な人生を送った女性だということが、今回のドラマで改めて知るところとなりましたね。
さて、実朝の生前に内定していた親王将軍下向は、実朝の死によって暗礁に乗り上げました。後鳥羽上皇にしてみれば、実朝の後見が前提だった話であり、何より、二代続けて将軍が殺されるという危険な鎌倉に、皇子を送るなんてとんでもない話だったでしょう。上皇は皇子下向の延期を通達してきます。まあ、当然ですね。さらに上皇は、藤原忠綱を鎌倉に派遣して実朝の死を悼むとともに、摂津国長江荘と倉橋荘の地頭職解任の院宣を伝えました。この荘園は、上皇の寵愛していた伊賀局亀菊の所領でしたが、地頭は義時でした。上皇は幕府を屈服させるべく無理難題を仕掛けてきたんですね。これを受けた義時、時房、泰時、大江広元らが政子の御所に集まって協議した結果、上皇の要求を断固拒否することに決定。3月15日、時房が1000騎の兵を引き連れて上洛し、地頭職解任を拒否するとともに、大軍を背景に親王将軍下向を要請します。幕府の威厳を見せつけました。この強硬姿勢が、のちの承久の乱につながっていきます。
その後も交渉は難航しますが、いつまでも駆け引き合戦を続けても埒が明かないと考えた上皇は、親王を下向させる気はないが、摂政、関白の子なら良いと譲歩します。そして白羽の矢が立ったのが、九条道家の子・三寅でした。ドラマで慈円が説明していたとおり、三寅は頼朝の血縁にあたります。極めて遠縁でしたが、親王から摂関家の子に格下げとなったことも、頼朝の血縁ということで面目が立ちます。ここが双方の落としどころだったでしょう。
三寅が鎌倉に下ったのは、実朝の死から約半年後の建保7年(1219年)7月19日。『吾妻鏡』によれば、正午ごろに義時の邸に入り、午後6時ごろに政所始めの儀式が執り行われました。もっとも、三寅はわずか2歳の幼児であり、当然、政務が執れるはずがありません。そこで、三寅が幼少のあいだは、政子が将軍を代行することになります。「尼将軍」の誕生ですね。もっとも、ドラマではここで政子が覚醒したように描かれていましたが、実際には、実朝の生前から、幕府内における政子の発言力は大きかったようです。上述した阿野時元の追討命令も、政子の名前で下されていますしね。ただ、それも形だけで、実際に実権を掌握していたのは義時だったとも言われますが、これも賛否の分かれるところです。頼朝の妻であり、頼家、実朝の母である政子が、義時のまったくのお飾りだったということはなかったんじゃないでしょうか。『吾妻鏡』は、実朝の死から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、政子を鎌倉殿と扱っています。
話をドラマに移して、劇中、施餓鬼で政子が接した市井のウメという女性が、かつての頼朝の妾・亀の前の娘なんじゃないかとSNSで話題になっているようですね。ウメの「伊豆の小さな豪族の行き遅れが、こんなに立派になられて・・・憧れなんです!」という台詞が、第13話で亀の前が政子に言った「伊豆の小さな豪族の家で育った行き遅れがさぁ、急に御台所、御台所って。・・・あなた、御台所と呼ばれて恥ずかしくない女になんなさい。憧れの的なんだから。坂東中の女の。そんなふうに考えたことあった?」という台詞の伏線回収だったと。たしかに、そんなシーン、そんな台詞がありましたね。みんなよく観てますね。ぜんぜん気づかなかった。さすが、三谷さん、こういう伏線づくりが好きですね~。ウメが亀の前の娘かどうかはわからないにしても、あのとき亀の前が政子に叱咤激励した台詞が、政子が覚醒して尼将軍となったこの回につながる伏線だったという。伊豆の小さな豪族の家で育った行き遅れが、まさに、坂東の頂点となる尼将軍となったわけですね。第13話から第46話へのロングパス。やっぱ、三谷脚本スゴイです。
さて、次週は覚醒した尼将軍政子の有名な演説シーンですね。いよいよ物語はクライマックス。残り2話。早く最後まで観たいという期待と、終わってしまうという寂しさが入り混じって、なんとも言えない複雑な心境となっています。ともあれ、次週、承久の乱勃発。
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by sakanoueno-kumo | 2022-12-05 20:51 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)