近江水口岡山城跡攻城記。 その3 <二ノ丸・三ノ丸・出丸>
「その2」のつづきです。
水口岡山城跡伝本丸から伝二ノ丸へ向かいます。

伝本丸と伝二ノ丸の間に大きな堀切があります。

ただ、ここを訪れたのは令和3年(2021年)8月29日、雑草が生い茂っていて遺構がわかりづらいですね。

東側に見えるのが、伝二ノ丸切岸です。

ここでもう一度、「その2」で紹介した縄張り図を載せます。
上の堀切跡は、縄張り図中央にブルーで塗られた大きな空堀です。

伝二ノ丸へ向かいましょう。

二ノ丸虎口かな。

登ってみましょう。

伝二ノ丸跡です。

けっこう広い。

細長い伝本丸と違って、伝二ノ丸は正方形に近い長方形の曲輪で、長辺は5~60mはあるでしょうか?
この面積だと、ここにも大きな建物があったかもしれませんね。
あるいは、後世の二の丸御殿のような居住スペースがここにあったのかも。

さて、二ノ丸から三ノ丸へ向かいましょう。

二ノ丸と三ノ丸の間にも堀切跡があります。

ところが、このとおり。
藪状態でまったく遺構がわかりません。
やっぱ、山城は冬に来ないとだめですね。
でも、冬に来ても、ちゃんと刈ってくれてなければ、藪状態は同じでしょうけど。

「三ノ丸跡」と書かれた標柱が。
ここが虎口のようですね。

上がってみましょう。

伝三ノ丸跡です。

ここも二ノ丸と同じぐらいの面積がありそう。

東側から見た三ノ丸跡。

三ノ丸跡東端からの東側眺望。
鈴鹿山系が一望できます。

ここに物見台のような建物があったんじゃないでしょうか。

下を見下すと、舌の形状をした広い空間があります。
縄張り図にある「伝出丸」のようですね。
下りてみましょう。

伝出丸跡に下りてきました。
標柱には「曲輪跡」と書かれています。

天正13年(1585年)に羽柴秀吉の命により中村一氏によって築かれた水口岡山城ですが、その後天正18年(1590年)に増田長盛が、文禄4年(1595年)には長束正家と、五奉行を務めた2人が相次いで入城しました。
秀吉がこの地をいかに重要に考えていたかがわかりますね。
ところが秀吉の死後、関ヶ原の戦いで長束正家は西軍に属して敗走したため、その後、水口岡山城は池田長吉、亀井茲矩らに攻められて落城し、長束正家は日野に逃れ、自刃しました。
城はその後、池田長吉の預かりとなりましたが、水口城の築城とともに廃城となりました。

伝出丸跡の外周には土塁の痕跡が少し残っていました。
縄張り図ではこのさらに東下にも曲輪があるようでしたが、これ以上下るとまた登るのがたいへんなので、攻城はここまで。

伝出丸跡から見上げた三ノ丸切岸です。
高い!
これをまた登るのか~!と思うとテンション下がりましたが、駐車場に戻らないといけないので、来た道を帰りました。

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by sakanoueno-kumo | 2022-12-08 19:03 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)