鎌倉殿の13人 第48話(最終回)「報いの時」 ~承久の乱の顛末と北条義時の死~
さて、最終回。冒頭の徳川家康の登場には驚きましたね。たしかに、家康が『吾妻鏡』を愛読していたという話は事実です。三谷さんのアイデアかプロデューサーの企画かは知りませんが、たしか同じ三谷さんの大河ドラマ『真田丸』の最終回でも、翌年の大河ドラマが井伊直虎の話だったことから、大坂の陣のシーンで井伊家につなぐようなセリフがあったことを思い出しました。粋な演出ですね。
北条政子の演説によって御家人たちを結束させた直後の承久3年(1221年)5月19日、北条義時の邸で今後の戦略が協議されました。集まったのは、北条義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村らで、その論点は、積極攻撃策か迎撃策かでしたが、大半の意見は、足柄と箱根のふたつの関を固めて防衛に専念するという迎撃策でした。朝廷と戦う決意をしたとはいえ、京都に向かって攻め上って「朝敵」のそしりを受けることに躊躇いがあったのでしょう。
これに対し、大江広元が積極策を主張しました。いわく、追討軍が準備を整えて東国に攻めてくるのはまだ先のことで、ここで迎撃策を選んで無駄に時間を費やせば、せっかく政子の演説で奮い立った御家人たちの士気は低下してしまい、朝廷への畏怖心から離反する御家人が出てこぬとも限らない。鉄は熱いうちに打て、という論理でした。やはり、義時政権の軍師はこの人ですね。ただ、それでも決めかねた義時は、政子に決断を求めます。すると政子は、病気療養していた長老格である三好善信に意見を求め、その善信も広元と同意見だったため、政子は積極攻撃策を支持。この政子の意見を聞き、義時は腹をくくったといいます。
5月22日早朝、北条泰時を総大将とした鎌倉軍が京都に向けて進発します。『吾妻鏡』によると、出発時の兵数はわずか18騎だったといいますが、後を追うように次々と御家人たちが進発し、最終的には19万騎に膨れ上がったといいます。まあ、言うまでもなくこの数は『吾妻鏡』の膨張と思われますが、大軍となったことは間違いないでしょう。ひとたび勢いが着くと、名誉と恩賞欲しさに兵が集まるというのは武士の本性でした。一方の朝廷側の兵数は、『承久記』によれば1万9千騎だったといいますから、兵力の差は歴然。すでに大勢は決していたといえます。
数に勝る鎌倉軍は勝利を重ね、京都に迫りつつありました。一方、後鳥羽上皇は宇治、勢多(瀬田)方面の守りを重視し、兵を配置していました。これに対して鎌倉軍は、時房が勢多へ、泰時が宇治橋へ、義村が淀方面を攻めました。なかでも宇治川の戦いは熾烈を極めたといわれます。6月13日に両軍は宇治川を挟んで激突。梅雨の長雨で宇治川が氾濫していた上に、橋は朝廷軍によって落とされており、朝廷軍は川向うから雨のように矢を射かけました。これに対して鎌倉軍は川を渡れず攻めあぐねていましたが、翌14日、泰時の決断で強引に川を渡り、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功。総大将の泰時が前線に進出したことで鎌倉軍の士気は上がり、承久の乱最大の激戦と言われる宇治川の戦いは鎌倉軍の勝利に終わりました。
6月15日、朝廷軍の藤原秀康、三浦胤義らは京都に戻って瀬田、宇治での敗戦を朝廷に報告するとともに、この上は御所に籠って最後の戦いをしたいと願い出でますが、巻き添えになることを恐れた後鳥羽上皇は、彼らを門前払いにしたといいます。何とも薄情な話ですが、先の後白河法皇といい、後年の後醍醐天皇といい、天皇の戦というのは、いつの時代も同じでした。死に場所を失った胤義は叔父の三浦義村に最後の決戦を挑み、自害したといいます。藤原秀康は逃亡するも、のちに捕らえられて殺されました。
乱後、義時は敗れた朝廷側を厳しく処断しました。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、乱に与しなかった土御門上皇も、自ら望んで土佐国へ配流されました。いわゆる三上皇配流です。その他、関係した貴族、武士たちの多くは死罪に処され、その残党も徹底的に処分されました。さらに、ドラマでは描かれませんでしたが、義時は朝廷の根幹である上皇、天皇の人事にも手を出し、天皇の地位に就いたことのない守貞親王を上皇として院政を布かせ、その子・茂仁を天皇に即位させました。後高倉上皇と後堀川天皇です。幕府が治天の君と天皇を決めたわけです。そして義時は京都に幕府の出先機関である六波羅探題を置き、そこに時房と泰時を駐屯させて朝廷を監視しました。まさに、このとき朝廷と幕府の力関係が逆転したといえるでしょう。承久の乱が歴史的戦いと言われるのは、この戦後処理にあります。
承久の乱の3年後の元仁元年(1224年)6月13日、義時がこの世を去りました。享年62。『吾妻鏡』によると、脚気を患い、さらに他の病気も併発したとありますが、その死はあまりにも突然だったようで、そのため、その死因については当時から様々な風評があったようです。そんななか、現在でも完全否定されていないのが、妻の伊賀の方(ドラマではのえ)による毒殺説です。その説の論拠は、藤原定家の日記『明月記』の安貞元年(1227年)6月11日条に、承久の乱の首謀者の一人だった尊長が、京で捕らえられた際、「義時の妻が義時に飲ませた薬を私にも飲ませて早く殺せ」と叫んだという記述です。尊長の妻は伊賀の方の妹であり、伊賀の方から直接真相を聞いていたとしても不思議ではありません。何より、鎌倉時代後期に成立した『吾妻鏡』などに比べて、『明月記』は義時の死後わずか3年という、ほぼ同時代に書かれた記録であり、興味深いところです。もっとも、証拠は尊長の発言だけであるため、その信憑性を検証する術はありません。
ただ、この毒殺説が当時からささやかれた背景には、義時の死後すぐに伊賀の方が不穏な動きを見せたことにあったでしょう。ここからはドラマのエピローグになりますが、伊賀の方は義時の死後すぐに、自身の生んだ政村を次の執権に、そして娘婿の一条実雅の将軍にしようと画策し、その力添えを政村の乳母父である三浦義村に頼んでいたところを、政子が義村を説得して伊賀の方と手切れさせ、企てを阻止したといいます。その後、伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ流罪となり、その4か月後に危篤となった知らせが鎌倉に届いていることから、その後まもなく死去したものと考えられています。その死に政子が関与していたかどうかはわかりません。いずれにせよ、わが子・政村を次期執権にしたいと考えた伊賀の方が、義時が泰時に家督を譲る前に毒殺したという推理は、あながち俗説と否定はできないかもしれません。
話をドラマに移して、義時の最後は伊賀の方の毒殺説を採用し、そこに義村を絡め、最後は政子が息の根を止めるという展開でしたね。なるほど、顛末はそうきたか、と。実はわたし、政子が義時を始末するという結末は、数話前から何となく予想していました。たしか第45話だったと思いますが、源実朝暗殺と公暁の死によって失意のどん底にいた政子が、伊豆に帰郷しようとしたところ、義時が「姉上にはとことん付き合ってもらう」と言ったうえで、「鎌倉の闇を断つために今まであなたは何をなされた!」と詰め寄るシーンがありましたよね。あのとき、わたしは、最後は政子が義時という闇を断つことになるんじゃないかと思いました。孤独な独裁者となった弟を楽にしてやるために・・・と。ただ、前回の弟を助けようとする政子の演説を聞くと、その予想の自信はなくなっていたんですけどね。
観終わって改めて思うのは、やはり、この物語の結末はこれしかなかったでしょうね。史実云々は別として、これまで多くの人物を粛清してきた義時が、普通に病で死ぬという結末は、やはりなかったのでしょう。でも、のえの盛った毒だけで死んでしまうというのも、物語としては消化不良です。かといって、ほかの誰かに殺されるというのは唐突過ぎますし、政子が誰かに命じて殺したり、自ら手を下すというのも、これまでの政子の言動でいえばあり得なかったでしょう。毒の症状に苦しむ義時に解毒剤を渡さない。よくこんな展開を思いついたものです。政子がそうした理由については、いろいろ考えられますね。上述したように、孤独な独裁者となった弟を楽にしてやるためだったとも取れますし、頼家の死の真相を知った政子が、最後にその報いを与えたとも取れます。その解釈は様々だとは思いますが、「ご苦労さまでした。小四郎」という政子の言葉が、すべてを物語っているように思います。
それにしても、「13人」の意味はそういう意味だったんですね。
さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2022-12-19 20:07 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(6)
総括の記事を楽しみにしております。
タイトル「鎌倉殿の13人」の謎解きが最終回にありましたが
やはりsakanoueno-kumoさんがおっしゃっていたように
結末からストーリーを作り上げてたのかなとも思います。
大まかな筋とひらめきを重ねてつくったんでしょうね。
こちらこそ、いつもありがとうございます。
13人は頼朝の死後に北条が粛清した人数だったとは、思いもしなかったですね。
大河ドラマの最終回って、エピローグ要素が大きいですから、前の回が面白ければ面白いほど、最終回は期待外れのことが多いのですが、さすが三谷さん、期待を裏切らないですね。
そんなことからも、やはり結末から逆算してストーリーを作っているように思えてなりません。
実に見ごたえのある最終回だったと思います。

素材のよい肉や魚によけいな味付けをするのは無粋である(と私は思う)のと同じで,鎌倉殿での家康サプライズも…ドラマそのものがよかった(ゆえに鎌倉時代のドラマに引きこまれた)からこそ「余計な演出」…極端なたとえになるかもですが,丁寧に処理されて塩だけでおいしく食べられるジビエ肉にカレーをぶっかけられたような…さすがにこれは言い過ぎかな?
放送時点からもう1年経とうとしているタイミングで思い出したかのような投稿になりましたが,2023年放送中の「どうする家康」において「義時役」の小栗旬さんがサプライズ出演といううわさがまことしやかに流れており…まあ,上述の理由で仮に小栗旬さんでなく吉高由里子さん(が紫式部の役で出る)という話だったとしても少なくとも私は評価しないと思いますが…前回作の主役だった方…?何のために?…そもそも事前にバレてるサプライズとは?…って感じですし,あるいは事実だとして早い段階から決めていたことだったとしても,この時点でドラマという「素材」に自信がないと言っているようなものとするのは言い過ぎでしょうか?
反論するようで申し訳ないですが、わたしは、松本潤さんのサプライズは面白かったですけどね。
本編ではなくアバンでの登場ですし、そのあとすぐにオープニング曲に入って、曲が終わって本編がはじまる。
これは、これまでの大河ドラマでの幾度となく使われてきた演出です。
一昨年の『青天を衝け』では、幕末の物語を家康がナビゲートするというファンタジー設定、2000年の『葵徳川三代』では、時代を越えて徳川光圀がナビゲーターとして毎回アバンに登場する演出、どれも面白かったですよ。
決して本編の邪魔になるとは思いませんでした。
このときの家康は最終回のみの出演で驚きましたが、家康が吾妻鑑の愛読者であったというのは事実であり、わたしは、上手いこと繋げたなぁとい思いました。
同じく一度だけの出演でいえば、『西郷どん』のとき、ずっとナレーションを務めてきた西田敏行さんが、実は西郷の息子の菊次郎だったというサプライズ登場もありましたね。
あれも、アバンでのサプライズ登場でした。
粋な設定だなぁと思いました。
今年の「どうする家康」のナレーションは寺島しのぶさんですが、わたしは、春日局ではないかと予想しています。
また、最終回あたりでサプライズ登場するんじゃないでしょうか。