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近江蒲生氏の最後の居城、日野中野城。

滋賀県蒲生郡日野町にかつてあった日野城は、古くは中野城と呼ばれていました。

そこで、本稿では日野中野城と呼ぶことにします。

日野中野城は、日野の領主・蒲生氏の近江における最後の居城でした。


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現在、城跡は日野川ダムの建設などで大部分が破壊されてしまい、本丸の北側を残すのみとなっています。


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日野川ダムの貯水湖のほとりが公園となっており、そこに駐車場がありのですが、この日は駐車場にバリケードが。


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ここを訪れたのは令和3年(2021年)829日。

世の中は新型コロナウイルス感染症の流行の真っ最中で、4回目の緊急事態宣言が出された期間だったのですが、なんと、こんな屋外の人っ子一人いない場所まで封鎖状態。

聞けば、滋賀県に緊急事態宣言が発令されたのはこのときが初めてだったみたいですね。

東京や大阪など都会の人は、4回目ともなると慣れっこになって、宣言が出ても無視して営業している店などがたくさんありましたし、ましてや屋外の公園までもが封鎖されるなんてなかったと思いますが、初めてということもあったのでしょうが、滋賀県まじめすぎです。

仕方がないので、ちょっと離れた場所に車を停めました。


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日野川ダム周辺マップです。

左下に中野城跡があります。


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その横には、日野中野城最後の城主となった蒲生氏郷とその正室・冬姫(相応院)の年表があります。

氏郷はここで生まれたと伝わります。


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城跡への誘導板。


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どうやら、あの森の中のようです。


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森の入口にある中野城の説明板。


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縄張り図の拡大です。

現在残っているのは、本丸右上の一部分だけです。


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森のなかに入ってみましょう。


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両側に土塁が残っており、堀切のなかを歩いているようです。


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深い切通の上に橋が見えます。

この橋の右側に涼橋神社、左側に稲荷神社があります。

上の縄張り図で見る限り、ここもかつて曲輪だったのかもしれません。


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橋をくぐって反対側から見た切通

石垣は城跡の遺構ではなく、稲荷神社が創建された江戸時代のものだそうです。


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といっても、やはり石垣を見るとテンション上がりますね。


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上がってみましょう。


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上から見下ろした切通。


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涼橋神社の社です。


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説明板によると、京保5年(1720年)創建の説と、寛文6年(1666年)創建説があるようです。


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橋の向こうに稲荷神社の赤い鳥居が見えます。

行ってみましょう。


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稲荷神社です。


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説明板によると、元禄14年(1701)創建と伝わるそうです。


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神社の石段の名残だと思いますが、なんか城跡の遺構を思わせます。


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稲荷神社から見下ろした切通。


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鳥居の向こうに土橋らしき場所が見えます。

降りてみましょう。


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やはり土橋でした。


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ということは、この池はかつての水堀の名残なのでしょうか?


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土橋を挟んで池の反対側に目をやると、「横堀」と書かれた立て札と、空堀跡があります。

真夏なので草ボーボーでわかりづらいですが。


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日野中野城の築城時期は定かではありませんが、室町時代中期より蒲生氏の居城だった音羽城に代わって、蒲生定秀が天文2年(1533年)ごろに築いたと考えられています。

その息子の蒲生賢秀は近江国守護・六角義賢六老臣のうちのひとりでした。


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永禄11年(1568年)、織田信長が六角義賢の観音寺城に攻め入ると、賢秀は柴田勝家蜂屋頼隆らを相手にこれを堅守。

しかし、六角義賢は信長に敗北し、六角氏は滅亡します。

ところが、賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵でここ日野中野城に籠もって抵抗を続け、最終的には賢秀の妹婿の神戸具盛が単身日野中野城に乗り込んで説得し、ようやく降伏して信長の傘下に入ります。

このとき臣下の証として人質に差し出した嫡男の鶴千代が、のちの蒲生氏郷です。


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信長は賢秀・鶴千代父子をたいそう気に入ったといい、鶴千代に娘を嫁がせました。

この娘が冬姫(相応院)です。

ちなみに冬姫という名は一次史料には見られない名で、この典拠は不明だそうです。

信長の正室の名・帰蝶とか濃姫という名と同じですね。


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天正10年(1582年)の本能寺の変の際、信長の横死を知った賢秀は、安土城から信長の妻妾一族をこの城へ避難させ、明智光秀軍を迎え撃とうとしたことは有名です。

光秀は日野中野城に使者を送り、味方に付けば近江半国を遣わすとの破格の条件を提示しますが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと、敢然と拒絶したといいます。

この振る舞いは、のちに天下人となった羽柴秀吉から称賛され、賢秀から氏郷へと家督を譲られたあとも、豊臣政権下で大大名となっていきます。


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天正12年(1584年)に氏郷が伊勢国松ヶ島12万石に移封となり、その後、田中吉政、長束正家が城代として入りますが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降に廃城となったと思われます。

江戸時代に入ると、元和6年(1620年)に市橋長政が近江国仁正寺藩初代藩主として入封し、ここ日野中野城跡の一部に陣屋を構え、仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続きました。


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城跡の一角に、その陣屋跡の石碑があります。


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石碑には「藩主市橋家邸城趾」と刻まれています。


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大正4年(1915年)に建てられた石碑のようです。


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説明板が読めません!


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こっちに新しい説明板があった。


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本丸北東には、「中野城趾」と刻まれた石碑があります。

住宅街の中にあるので、探すのに苦労しました。


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豊臣政権下で会津92万石の大大名となった氏郷でしたが、一方で、その優れた能力を秀吉から警戒されていたため、東北に追いやられたとの説もあります。

まあ、似たような話で黒田官兵衛も九州に追いやられたとも言われますから、どちらも伝承に過ぎないかもしれませんが。

いずれにせよ、そんな氏郷が生まれたのが、ここ日野中野城でした。

最後に、御城印を載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2023-02-03 18:32 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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