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どうする家康 第6話「続・瀬名奪還作戦」 ~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~

 前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説に基づいた話でした。


どうする家康 第6話「続・瀬名奪還作戦」 ~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~_e0158128_20450078.jpg 永禄5年(1562年)24日、元康は三河上ノ郷城を攻めました。上ノ郷城は今川の重臣・鵜殿長照の居城ですが、今川を離反した元康が三河全域に勢力を伸ばし始めたため、同城は松平勢力圏内で孤立しつつありました。西三河を平定し、東三河も制圧しようとする元康としては、上ノ郷城は遅かれ早かれ攻略する必要があったんですね。そしてもうひとつ、元康には上ノ郷城を早急に攻略する目的がありました。それは、鵜殿長照とその息子たちを生け捕りにし、彼ら人質にして駿府にいた元康の妻子を取り戻す切り札にしようと考えたわけです。長照の生母(もしくは妻)は今川義元だったとされ、今川氏真から見れば従兄弟(もしくは義叔父)にあたり、十分人質になり得る人物でした(もっとも、歴史家・本多隆成氏によると、現在その説は否定されているとのこと)。


 ドラマでは、上ノ郷城攻めで忍者が活躍していましたが、時代考証担当の平山優氏によると、これは『三河物語』に記されている逸話だそうで、「西之郡之城(上之郷城)ヲ忍取に取せ給ひて、鵜殿長勿ヲ打取、両人之子供ヲ生取給ふ」(上之郷城を忍びたちに攻め取らせ、鵜殿長照を討ち取り、彼の二人の子供を生け捕りにした)とあるそうです。忍者というと物語の世界だけのフィクションと思いがちですが、実際にいたんですね。もちろん、人間離れした忍術なんかは使いませんが、現代でいうところの諜報員、いわゆるスパイですね。当時は「乱波」とか「素破」「くさ」などと言われていたようですが、同じく平山優さんによると、「忍者」という呼称もあったようですが、当時は「しのびのもの」と読んだそうで、「にんじゃ」と読むようになったのは、昭和40年代からだそうです。そんなに最近の造語だったんですね。知らなかったなぁ(ってことは、吉川英治山岡荘八池波正太郎の小説では、「にんじゃ」という呼称は使われていなかったってことですよね)。


 ドラマでは、駿府にいた今川氏真も上ノ郷城に向けて出陣したように描かれていましたが、時代考証担当の小和田哲男氏は、氏真が出陣したという記録はなく、脚本のオリジナルとされていました。ところが、もうひとりの時代考証担当の平山優氏はその著書のなかで、氏真は鵜殿父子救援のために出陣したが、間に合わなかったと述べておられます。このあたり、同じ時代考証担当の先生同士でも見解の相違があるようですね。ドラマは平山説を採っていたということでしょうか。


 忍者たちの活躍もあり、上ノ郷城は落城しました。城主の鵜殿長照は元康家臣の伴与七郎に討たれましたが(ドラマでは忍者に囲まれて自害していましたね)、二人の息子・氏長氏次兄弟は生け捕りにされます。この二人を切り札に、元康は妻子奪回に向けて交渉をはじめました。『松平記』によると、ドラマで描かれていたように重臣の石川数正が交渉を担当したといいますが、ドラマのように戦場に人質を連れてきていたということはおそらくなく、駿府にいたと思われます。したがって、川を挟んでの人質交換は、ドラマの演出ですね。でも、あのシーンは見ごたえがありましたね。かくして、元康の妻の瀬名(築山殿)と長男の竹千代(のちの信康)、長女の亀姫と、鵜殿氏長と氏次兄弟の32の人質交換が成されました。


 ちなみに、瀬名の父・関口氏純についてですが、『松平記』によると、この人質交換によって元康と手切れとなり、怒った氏真は元康の舅である氏純に切腹を命じ、駿府の屋敷にて死去したとされています。しかし、近年の調査により、翌年の閏12月付けの関口氏純の花押が入った証文が見つかっており、少なくともそのころまでは存命だったことが明らかになっています。今回のドラマでは瀬名の父母は今川方に残って責めを負うと言っていましたが、処刑される場面はなかったですね。あの後どうなったのでしょう。


 どうする家康 第6話「続・瀬名奪還作戦」 ~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~_e0158128_20512604.jpgちなみにちなみに、平山優氏によると、同じく歴史家の黒田基樹氏の研究により、瀬名(築山殿)が駿府で人質となっていたという通説は否定されつつあるそうです。『当代記』によると、瀬名と亀姫は元康が桶狭間の戦い後に岡崎城に入ってすぐに岡崎に送られており、駿府で人質となっていたのは竹千代だけだったと。『三河物語』『松平記』にも、人質交換のくだりで出てくるのは竹千代の名前だけで、妻と娘のことは記されていません。ただ、この新説が提起されたのが令和4年(2022年)10月だったため脚本完成後のことで、考証には間に合わなかったとのこと。歴史研究は日々進展してるってことですね。まあ、まだ通説が完全否定されたわけではないですし、物語としては、旧来の説の方がドラマチックですもんね。これはこれで良かったんじゃないでしょうか。


 この人質奪回により、元康は完全に今川と手切れになりました。次回は今川義元からもらった「元」の字を捨てるようですね。



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by sakanoueno-kumo | 2023-02-13 18:40 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)

 

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