どうする家康 第7話「わしの家」 ~家康改名と三河一向一揆勃発~
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うまでもなく今川義元の偏諱を与えられたものであり、今川から独立した今となっては、元康という名乗りは不都合だったんですね。今川とのしがらみを断つための改名だったと考えられています。
では、なぜ「家康」という名乗りだったのでしょう。家康の「康」は、祖父の松平清康から一文字とったものであり、これを変える理由はありません。では、なぜ「家」だったのかですが、これは諸説あって定かではないようです。たしかに、松平一族には「家」のつく名の人物は多く、家康の直系にこそいませんが、例えば形原松平では家広→家忠→家信というように「家」の字が通字となっているほか、桜井松平には家次、竹谷松平には家清、安城松平には長家という人物がいます。ただ、時代考証担当の小和田哲男氏によれば、いずれも家康から見て尊敬に値する人物ではないとのこと。彼らから一文字もらったというのは考えづらいようです。また、別の説では、家康の母・於大の方の再婚相手で、家康の義父となった久松俊勝が、かつて長家を名乗っており、ここから「家」をもらったともいわれます。こっちの説の方がありかもしれませんね。
また、劇中、家康という名を聞いた酒井忠次が「武家の元祖であらせられる八幡太郎源義家公の『家』でございますな」といい、「それもある」と家康が答えていましたね。八幡太郎源義家は言うまでもなく、源頼朝や足利尊氏の祖先にあたる人物ですが、家康が明確に源氏を称するようになるのは、これよりずっと後年、征夷大将軍に任じられる目前であり、それまでは、藤原氏と源氏を状況によって都合よく使い分けていました。まだ徳川姓にもなっていないこの時期、源氏の元祖である源義家を意識していたかどうかは、これまた疑問です。つまり、決定的な理由は定かではないんですね。ドラマでは「この三河をひとつの家だと考えておる」というのが一番の理由だということでしたね。物語としては、それでいいんじゃないでしょうか。もっとも、つい数話前までは「三河なんて嫌いじゃ!駿府へ帰りたい!」なんて言ってたはずですけどね(笑)。
元康から家康に改名した直後の9月、三河で一向一揆が勃発しました。ここでいう一向宗とは浄土真宗のことですが、その始祖である親鸞の教えを受け継いだ宗派すべての運動ではなく、その後の蓮如を中興の祖とする本願寺派の門徒たちが起こした一揆でした。当時、三河国は一向宗の門徒が広く拡大していました。一揆が起きた原因については諸説ありますが、『三河物語』や『三州一向宗乱記』によると、本證寺に侵入した無法者を西尾城主の酒井正親が捕縛したため、不入の特権を侵害されたとして蜂起したといいます。ドラマでも出てきましたが、「不入の特権」とは、寺社には大名の権力が及ばないという「治外法権」のようなものです。また、『徳川実紀』には、家康の家臣の菅沼定顕が上宮寺の籾を奪ったことに端を発したと記されています。ドラマでは、菅沼定顕という家臣は出てきませんでしたが、米を強奪するシーンが描かれていましたね。これも、不入の特権の侵害でした。
当時、今川家などでも、寺院には不入の特権が与えられ、年貢を取り立てないなど優遇されていました。同じく三河でも、上述した上宮寺、本證寺、そして勝鬘寺は三河三ヶ寺と称され、家康の父の代から特権が与えられていたんですね。これを、新領主となった家康が、廃止しようとした。それが、一向宗から反発を買った要因だと思われます。ドラマの家康も、不入の特権について「おかしな話じゃ」と憤慨していましたが、たしかにそうですよね。
現代でも、宗教法人はお賽銭やおみくじ、お布施などの収益は非課税となっており、そのほか様々な形で優遇されています。つまり、高額な壺や本を売りつける、いわゆる「霊感商法」などで社会問題となった某宗教団体も、お布施と称している限り非課税なんですね。また、宗教法人が所有するお堂などの建物にも固定資産税はかかりません。重要文化財に指定されているような由緒ある建物ならともかく、全然名の知れていない胡散臭い宗教団体(有名無名にかかわらず宗教法人はすべて胡散臭いですが)が街中にオフィスビルを建てても、そこで宗教的な催しをする名目があれば、非課税なんですね。そのため、あの宗教団体もあの教団も、街中にでっかい趣味の悪いビルを建ててるわけです。あれが非課税ってどうよ!って思いません?まさしく不入の特権ですね。
ところが、現代でも政治はこの不入の特権になかなかメス入れできません。かつてオウム真理教事件が勃発した際には、宗教法人に対する優遇措置を改めるべきではないかという議論がありましたが、多少の修正はあったものの、根本的な改善はされることなく現在に至っています。なぜか・・・。それは、政治家にとって宗教団体は組織票を得られる大きなパトロンだからですね。政治家は宗教団体に対して強く当たれないばかりか、彼らの支援を得るためには悪魔に魂を売ります。結果、昨年の安倍晋三元首相銃撃事件のような顛末に至るわけです。これ、民主主義の限界といえるでしょう。家康の時代には選挙はありませんから、家康も信長も秀吉も、宗教と戦っていますよね。宗教というのは、古来、そういう始末の悪いものなんです。
話が大きくそれちゃいましたね。三河一向一揆の顛末は次回に描かれるようです。
ちなみに、無事に救い出された瀬名(築山殿)でしたが、通説では、岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の外れにある惣持尼寺で幽閉同然の生活をしていたといわれ、その地名が「築山」だったことから、築山殿と呼ばれるようになったと言われているのですが、ドラマでは、仲睦まじく一緒に岡崎城で暮らしているようですね。まあ、物語ですから、それもありでしょう。なんてったって岡崎はひとつの家ですからね。夫婦別居なんてありえません。
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by sakanoueno-kumo | 2023-02-20 19:12 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)