どうする家康 第14話「金ヶ崎でどうする!」 ~金ヶ崎の退き口~
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。その中には、信長と共に上洛していた徳川家康もいました。出陣の前日、信長は参内して正親町天皇(第106代天皇)に暇乞いをし、将軍・足利義昭にも面会しており、勅命と将軍の上意の両方を受けての出陣でした。
琵琶湖の西岸を北上し、関峠を越えて敦賀に入った信長は、妙顕寺に本陣を布き、まずは天筒山城に攻めかかります。信長はこの攻城戦を力攻めに出ました。その猛攻で天筒山城は1日で落城しますが、『信長公記』によると、このとき織田方が取った首は1370余りとあり、凄まじい戦いだったことがうかがえます。一方、『言継卿記』によると、織田方も千余人討ち死にしたとあり、相当な犠牲が出たようです。朝倉氏との最初の戦いは激戦でした。翌日、織田方は主城の金ヶ崎城攻めに取り掛かりますが、城主の朝倉景恒はあっけなく降参、城を明け渡しました。前日の天筒山城の攻城戦で大きなダメージを受けた朝倉方は、戦意を殺がれ、これ以上犠牲者を出さないよう無駄な抵抗を避けたというのが、その理由だったと考えられます。
ところが、周知のとおり、このときの越前攻略はここで終わります。4月27日、勢いにのった織田軍が越前に向けて木ノ目峠を越えようとしたとき、北近江の浅井長政が反旗を翻したという情報が飛び込んできます。浅井氏と織田氏は同盟関係を結んでおり、浅井長政の妻・お市の方は信長の妹でした。『信長公記』によると、この情報に接した信長は「木目峠打越し、国中御乱入たるべきの処、江北浅井備前手の反覆の由、追々共注進候。然共、浅井は歴然御縁者たるの上、刺、江北一円に仰付けらるゝの間、不足これあるべからざるの条、虚説たるべきと思し食され候」とあり、俄に信じようとはしなかったといいます。信長にとっては思いも寄らない裏切りだったようですね。しかし、次々に入ってくる情報で、信長も長政の謀反を確信し、28日夜、全軍の撤退を決意します。
長政が信長に反旗を翻した理由について、浅井氏が朝倉氏に旧恩を感じていたからといわれることが多いですが、たしかに、大義名分はそうだったかもしれませんが、この時代の価値観からして、旧恩に固執して家を滅亡の危機に晒すとは考えにくいでしょう。おそらく、長政は信長に勝つ見込みがあったのでしょうね。大軍を率いていたとはいえ、この当時の認識でいえば、織田氏は最近頭角を現したばかりのベンチャー企業で、一方の朝倉氏は、老舗の大企業。どちらにつくほうが得かと考えた末、大企業を選んだ。長政のこの判断は、決して間違いではなかったでしょう。実際、長政が反旗を翻したことで、信長は命からがら越前から逃げ帰っているし、その後も、信長包囲網の一角として、信長を大いに苦しめています。歴史の歯車がひとつ狂えば、長政が反信長勢力を集結して信長を倒し、日本の歴史を大きく変えていたかもしれません。
ちなみに、信長の妹で長政の妻だったお市の方が、袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り、もはや「袋のネズミ」であるということを兄・信長に伝えたというエピソードですが、この話は後世の作り話だというのが有力となっています。
ドラマでは、撤退を決意した信長が木下藤吉郎秀吉にしんがりを命じていましたね。史実でも、このとき、秀吉は金ヶ崎城に残って敵の追撃を防ぎながら無事本隊を退却させ、自身も無事退却することに成功したといい、これが、世に「藤吉郎金ヶ崎退き口」といわれる秀吉伝説のひとつとなっています。この武功によって秀吉が織田家家臣としての地位を高めたとされ、これまで数々のドラマや小説でもそのように描かれてきました。これは、『信長公記』にある「金か崎の城には木下藤吉郎残しをかせられ」という記述や、のちの『太閤記』の記述によるものですが、一方で、元亀元年と推定される5月4日付けの波多野秀治宛の一色藤長の書状には、「金崎城に木藤、明十、池筑その他残し置かれ」と記されています。「木藤」は木下藤吉郎秀吉、「明十」は明智十兵衛光秀、「池筑」は池田筑後守勝正のことで、つまり、金ヶ崎城にしんがりとして残ったのは、秀吉だけではなかったようです。しかも、『言継卿記』によれば、京都を出陣した際の池田勝正の軍は3千ほどあったといいますから、おそらく、この軍が主力を成していたのでしょう。有名な「金ヶ崎の退き口」の逸話は、秀吉だけの功ではなかったんですね。後年、光秀は秀吉によって討たれ、池田勝正も歴史の表舞台から消えていき、歴史の勝者となった秀吉の作る歴史として、光秀と勝正の戦功は消し去られたのでしょう。
ちなみに、このとき徳川家康もしんがりに加わっていたという説もありますが、これは、徳川家の公式史書とされる『徳川実紀』や、江戸幕府によって編纂された『寛永諸家系図伝』にしか見られない記録で、信憑性に欠けます。上述した一色藤長の書状にある「その他」のなかに家康がいたといえなくもないですが、家康は秀吉らと違って信長の家臣ではなかったですから、わが身を危険に晒してまで武功をあげる必要はなかったでしょう。従軍していたのはたしかですから、後世のだれかが家康もしんがりに加えたのでしょうね。秀吉といい家康といい、みんな、欲しがりますね(笑)。
さて、ドラマですが、有名な小豆の袋の話はやりませんでしたが、小豆(あずき)の代わりに阿月(あづき)ですか・・・。正直、ぜんぜん面白くないです。でもって、その阿月がお市の伝言を届けるべく10里の道を駆け、家康の陣にたどり着いて息絶える。これ観て泣いた人いるんですかね。今回の阿月だけじゃなく、第12話の早川殿、第11話のお田鶴さん、第10話は西郡局のレズビアン話と、どうもこの脚本家さんは無駄に女性を活躍させたがるようです。それも、お田鶴さん以外は、その回で初めて出てきた女性ばかりで、唐突感は否めません。今回も、冒頭で急に足の速い少女の話がでてきた思いきや、これを描くためのプロローグだったんですね。そんな唐突に出てきた女性が、唐突に活躍して唐突に死んでも、泣けるはずがないでしょう。なんでこんな安っぽい脚本になっちゃうんでしょう。そんなに女性を活躍させないといけない縛りがあるんですか? 実にくだらない。
それと、秀吉のキャラ、何とかなりませんか? 家康が主人公の物語ですから、秀吉がダーティーに描かれるはやむを得ないとしても、ちょっと酷すぎ。あれじゃあ、単に頭のイカレたアブナイ奴です。今回、家康の台詞にもありましたが、クズですね。なんであんな単純なキャラ設定しかできないんでしょうかね。仮にも秀吉は、のちに位人臣を極めて天下人になる人物。それも、「人たらし」との異名をとるほどの人心掌握術で敵味方を問わず懐柔してのし上がっていく人物です。あんな頭のイカレたクズ人間に、誰がついていくんですか? ヒール役として描くにしても、もっと違うキャラ設定があったはず。あのキャラはないわ~。。。。
このブログで大河ドラマのレビューをはじめて15年、わたしはこれまで最終回を観終えるまで厳しい批判をしないのが主義だったのですが、今年は数話前から批判ばかりになっちゃっています。毎年一緒に大河ドラマを観てきた妻も、今年は面白くないといって早々にリタイアしました。わたしも、妻から「面白くないなら今年は観るのやめたら?」と言われています。たしかに、文句言うぐらいなら観なけりゃいいのに・・・というのが正論ではありますが、ただ、30年以上、日曜の夜の習慣として続けてきた大河ドラマの視聴をやめるというのは、そう簡単に決断できることではないです。どこまで耐えられるか・・・。今年の日曜の夜は忍耐の日になっちゃいました。
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by sakanoueno-kumo | 2023-04-17 17:25 | どうする家康 | Trackback | Comments(20)

今回 家康は信長に「あほたわけ」とか「お前」って言ってましたが家臣に言わされてたんでしょうか?内から出た言葉なんでしょうか?急に強気に出た回だなぁと思いました
阿月=小豆ですか確かにまったく面白くないです。やたら話の本筋から離れたエピソードばかりなぜやりだかるのか?おそらくあるブロガーさんのレビューで書かれていたことですが今回は鎌倉殿と違って途中から見ても楽しめる演出になっていると。歴史になんの興味も無いニワカでもジャニオタでも初見で盛り上がれるように笑える、泣けるというサビのパートを必ず持ってきてネットで話題になるように演出してる。これは現代劇のコメディのやり方だと思います。秀吉キャラ、LGBT、信長、家康のBL匂わせもすべてそう。
私もどうしようかと考えているんですがもはやどこまで壊してくれるのか逆に楽しみですよ(笑)。話数の無駄使いといい、大坂の陣ナレーションで完全スルーもあり得るなと。しかしマラソンに泣いた人もいたとあったから視聴者のレベル自体がこれで満足になってるのかもしれません。多分NHKが一番嫌いなのは私のような家康は遠江平定の堀川城の戦いで今川の抵抗した領民虐殺してますよとか言う歴史にうるさい面倒くさいおじさんでしょう。
ですよねー。
ムロツヨシのことが嫌いになっちゃいそうです。
岡田信長が語る時の右手の仕草・・・、すみません、それ、気づかなかったです。
今度注意して見てみますね。
信長に「あほたわけ」とか「お前」って言わせたのは、家康は家臣ではなく同盟者だということが言いたかったのでしょうが、たしかに家臣ではないですが、対等な同盟関係ではありません。
三河と遠江の二か国を支配したとはいえ、信長の後ろ盾がなければ、たちまち武田に滅ぼされてしまうであろう危うい立場です。
アメリカに守られている日本のようなものですね。
岸田さんはバイデンに「あほたわけ」とか「お前」なんて言えないでしょう。
家康はの信長の家臣ではないですが、準家臣のようなものです。
>途中から見ても楽しめる演出
・・・・なるほど。
でも、あれで本当に途中から見て楽しめるのかどうか疑問です。
歴史はつながっていますからねぇ。
一話完結のドラマと同じ作り方では、無理が生じるとわたしは思いますね。
>どこまで壊してくれるのか逆に楽しみ
なるほど、たしかに(苦笑)。
そう考えてみたら、まだ耐えられるかもしれません(笑)。
耐えながら観るドラマっていうのもどうかとは思いますが。
>堀川城の戦いで今川の抵抗した領民虐殺してますよ
ですよねー。
それが戦国大名です。
乱世を終わらせるためとか、平和な世の中を作るためとか、そんな正義の味方の戦国大名なんていないとわたしは思います。
少なくとも、昭和の大河ドラマの主人公は、そんな綺麗ごとは言わなかった。
今は綺麗に描かないとダメなんでしょうかねぇ

その点同意します。
金ケ崎の退き口での「ここで生き延びりゃわしゃもっと上に行ける。」という場所柄をわきまえない不謹慎な野心むき出しの発言、さらに「ここで家康様が助けてくれなきゃわしゃ家康様が殿を裏切るつもりじゃと言いふらす。」と言ってしまう辺り、とても賢い生き方とは思えません。それよりは平身低頭家康に助力を頼み込んで、家康をして「こんなに一生懸命頼み込んでいる秀吉殿の依頼を無下にしたら後々面倒くさいことになる。」と忖度させる方が賢いと思います。
心の中で秀吉のような下種な考えをしている人は恐らく大勢いるでしょうが、それをこうもあからさまに出す人間が存在するとは思えません。また、そのような見るからに下種な人間が後に浅井家が滅んだあとの長浜を任され、中国攻めを任され、後には天下も取れるという、錦絵の如き出世ができるとも思えません。
この点製作陣はもう少し改善の余地が有ったと思います。

個々の着眼点は悪くない。ただその個々のエピソードを「家康の成長」にきちんと絡めていかないと。
比較は申し訳ないが、昨年の義時は、上総介の死、義経との別れ、比企の謀殺、頼家の暗殺、重忠との一騎打ち、父の追放、それらひとつひとつが積み重なって義時の考えや行動に影響を与えてゆくさまが鮮やかに描かれた。
今年の家康はどうか。半蔵の仲間の死や正信の過去、関口夫妻との別れ、長吉の吃音、お葉の同性愛、田鶴の瀬名への思いや今川への忠義、氏真の2代目の苦悩、阿月の過去。それらはきちんと家康の血や肉になっているだろうか。
加えて家康の戦場での成長を描かないから、いまだ彼がどういう武将なのかがわからない。
正直、家康の物語を見ているというよりは家康以外の人々のスピンオフを毎回見ている気持ち。単発物としては面白くても、これは家康にどういう影響を与えたの?という気持ちになる。
若者向けってこういうことだろうか。
おっしゃるとおりですね。
秀吉のずる賢さやしたたかさ、サイコパスともいえる残酷さを出したいのかもしれませんが、秀吉がとち狂ったのは晩年の秀頼が生まれてからであり、それまでは、ずる賢いしたたかな男ではあったでしょうが、それを感じさせない明るさ、人間力があったと思います。
でなけりゃあんなに出世できるはずがありません。
今回のドラマの秀吉は、人間的魅力がまったく感じられない。
キャラ設定がめちゃくちゃすぎです。
>家康以外の人々のスピンオフを毎回見ている気持ち
なるほど。
でも、わたし的には、スピンオフと捉えても面白くないですね。
家康を題材にした歴史パロディとしか思えません。

どうも本作の製作陣は徳川家康と三河武士と武田信玄と織田信長とお市の方以外の人物像の描写を手抜きしているように見えます。
他の大河ドラマ、例えば『黄金の日々』では今回同様豊臣秀吉(名前がいろいろ変わりますが、ややこしいのでこれで行きます。)は主人公ルソン助左衛門の周辺人物で、脇役でしたが、永楽通宝をルソン助左衛門(当時「すけざ」)や五右衛門、ぜんじゅぼうに与える等、おおらかで気さくな秀吉が分不相応な権力を握るとともに変わっていく様がよく描けていました。それでいて、主人公がルソン助左衛門であることは一目瞭然でした。優れたドラマとは一人一人の人物像が入念に描けていて、それでいて主役が誰か明々白々なものを言うのでしょう。
ところが今回の秀吉はただの欲望むきだしで表裏が有って、どう見ても「人たらし」でも上に可愛がられる、或いは面白がられる性格ではないですね。
『黄金の日々』の秀吉は確かに良かったですね。
おっしゃるように、助左と最初に出会ったときの気さくな藤吉郎と、利休に死罪を言い渡したときの秀吉は別人でしたし、その変わりゆく姿を見事に描いていましたね。
最近までBS-NHKで『おんな太閤記』をやっていましたが、西田敏行さん演じる秀吉も然りでした。
実際の秀吉がどんな人物だったのかは確かめようがないですが、たとえば吉野の花見や醍醐の花見、肥前名護屋城で催した「仮想大会」など、やることが華やかで明るいため、秀次事件や利休切腹などダーティな部分が、その持ち前の明るさと人懐っこさでかき消されてしまう、きっとそんな人物だったのだろうと想像します。
今回の秀吉は、そんな魅力は微塵にも感じられないですね。
本話で鉄砲隊を指揮するときの感情のない不気味な演技も、これが秀吉か?・・・と思わずにいられませんでした。
>徳川家康と三河武士と武田信玄と織田信長とお市の方以外の人物像の描写を手抜きしているように見えます。
このなかで、少なくともお市の方はわたし的には不要な登場人物だと思っています。
だって、家康の物語ですからね。
今回、その家康と幼馴染で、お市がほのかな恋心を抱いていたような話になっていますが、そんなフォクションを盛り込んでまで描く必要があるだろうか・・・と。
まあ、その娘である淀殿を最終回近くで死に追いやるわけですから、その伏線なのかもしれませんが。

大河ドラマでスピンオフ…と言われて私が思い出すのは,2004年「新選組!」のスピンオフ「土方歳三最後の一日(だったかな?記憶が不確かなので違っていたらご指摘ください。)」です。スピンオフというのは,あくまで「しっかりとした本編のストーリー」という軸というか幹というか…そうしたものがあって初めて成り立つものなので(と私は考えているので)…「どうする家康」に軸や幹がないとは言いませんが,今のところは見えてこない中でスピンオフというのは…いささか正確ではないのかもしれません。
私の感覚としては(新撰組血風録のような)ショートショートと言った方が正確な気がします。そしてショートショートだ(毎回毎回の話は独立しているもの)と思って,見れば…ある意味では楽しめるのかもしれません。「前回までの話を何らかの理由で見ることができなくても,あるいは忘れてしまっても楽しめる」と考えれば,あながち悪いことばかりでもないでしょうし(苦笑)…まあ,その一方で「前の話を覚えていると楽しめない」のはいかがなものかとも思いますけど。
「土方歳三最後の一日」・・・あれは良かったですね。
スピンオフの定義はおっしゃるとおりだ思います。
その意味では、昨年の『鎌倉殿の13人』のスピンオフで、政子と伊賀の方を主人公とした伊賀氏の変のスピンオフを期待しているわたしです。
新撰組血風録のようなショートショートは、わたしは大河ドラマでやるべきことではないと思います。
1クール10話ほどで最終回となる民放のドラマと違って、50話近く描く長編ドラマの大河だからこそ描ける作品を作ってもらわないと。
NHKはスポンサーに媚びを売ることもないわけですから、本来、民放のように視聴率に固執する必要もないはずです。
もちろん、エンターテインメントである以上、多くの人に観てもらいたいという気持ちはわからなくもないですが、NHKだからこそ、視聴者に媚びることなく、視聴率稼ぎに走ることなく、良質の作品を作ってほしいと願っています。

あれを今回活かせたはずだと考えます。
まず、朝倉軍が織田・徳川連合軍の陣に向け進撃中という報告の後、信長が「これをどう見る。」と問います。ここまでは本作と同じです。ここで、徳川家康が駿河で『孫子』「行軍篇」を読んでいる回想シーンを出します。
そして、家康が信長に「私は今川の人質だった頃、書物を多く読みました。その中に『孫子』の「行軍篇」というものがあります。と言います。信長が「ほう。それで。」と言い、家康が「そこには「敵近而靜者恃其險也」、「其所居易者利也」「衆樹動者來也」等、敵軍の状況や我の把握できるその他の状況から敵の意図や状態等を把握する術が述べられていました。今回、朝倉は我らよりも少数です。そうであれば籠城を選択するはずです。日向殿の仰るような戦下手なら尚更です。下手な人間は原理原則の通り動きます。応用を知らぬからです。また、追い詰められて自棄を起こして攻撃を仕掛けるにしては早すぎます。そうなると、これは朝倉に強力な援軍があると見て良いのではないでしょうか。その援軍ですが、もし朝倉の後方から来着するのであれば、朝倉は撃って出る必要はありません。援軍来着まで籠城を続ければ良い。では撃って出るのが最善の状況とは何か。それはその援軍が我らの背後か側面を突く場合でしょう。だから朝倉は少数の兵力であるにもかかわらず撃って出た。そう考えれば全て得心がいきます。」とでも言えばこれまでさんざん視聴者が見せられた、家康が今川家人質時代に学問に励んでいたという回想シーンが活かせます。
なるほど。
お見事な脚本ですね(拍手)。
でも、残念ながらこのドラマの脚本家さんは、戦術や戦略を描くつもりはなさそうです。
というより、いくさを詳しく描くつもりはなさそうですね。
なんてったって、本作の家康はいくさが嫌いなようですから。
次回、三方ヶ原の戦いが描かれますが、どのように描かれるのか、逆に楽しみです。
また、「嫌じゃ嫌じゃ、いくさは嫌じゃ~」とか言いそうで・・・(苦笑)。
代わりに脚本書いてください!

小豆袋はそもそも史実じゃないとか,そういうレベルの話で(すら)なく…そもそもあの逸話は「お引き候え」という手紙を送ることができない(このドラマでもそうだったように阻止される)から,「浅井が裏切って浅井と朝倉に挟み撃ちされている(からお引き候え)」という意味の暗号として送られたという話でした(と私は理解していますし,これはおそらく至極一般的な理解,認識と考えます)。したがって文を「同封」してしまうと「小豆袋=暗号」の意味がなくなってしまうはずですが…脚本家,演出家,演ずるキャスト陣…誰か気づいて指摘することはなかったのでしょうか?それともそういうツッコミ待ちの「ボケ」だったのでしょうか?(後者だとすれば,その目論見は大外れと言わざるを得ませんね。)
Yahooコメント等で「どうする家康をドラマとして楽しめない人は歴史小説か教科書でも読んでろ」的な養護コメントが散見されますが…まあ,金田一少年やコナンくんのような推理モノで言えば「ダイイングメッセージに犯人の名前を書き添える」ような脚本家のドラマを楽しめる感性(というか寛容さ?)は少なくとも私は,まことに残念ながら持ち合わせておりません。そしてこの体たらくでは「戦術や戦略を描く」ことは(仮にそのつもりがあっても)至極困難と言わざるを得ないでしょう。(そもそもそのつもりもなさそうですが…。)
res遅くなって申し訳ありません。
当方、いまめっちゃ忙しくて、ご容赦ください。
(今も出張先のホテルです)
たしかに、おっしゃるとおり、脚本が破綻していますね。
Yahooコメントの類は基本的にあまり読まないので、そういった擁護コメントも知りませんでした。
まあ、このドラマを面白いという人を否定するつもりはありませんし、自身の考えを押し付けるつもりもありません。
とらえ方は人それぞれですからね。
わたしも、基本的には最終回を観終えるまでは批判しないというスタンスでこれまで当ブログを続けてきました。
観るからには、最初から面白くないという先入観を持って観たら、せっかくの日曜の夜がもったいないですからね。
ただ、さすがにLGBTをぶっこんで来た回はあまりにもゲンナリして、思わず批判せずにはいられませんでした。
一度批判に走ると、次から次へと批判したくなるもので、この回の阿月の話も、黙っていられませんでした。
でも、面白いと思って観ている方もいるわけですから、あまり批判するのはよくないですね。
ちょっと反省しています。

伏線回収!
ネット号泣!
ネット悲鳴!
神回!
…などなど,たとえどんなに面白いドラマであったとしても毎回号泣したり,悲鳴あげたりほんとうにしているなら…正直かなり情緒不安定な方なのかなと他人事ながら心配になってきますが…。
非難と批判は異なりますから…もちろん「自分が面白くないと思っている作品を楽しんでいる人」をそのことを理由で人格否定するような非難は断じて許されませんが,客観的な批判はむしろ大いになされるべきでしょうし…ましてや前述のように「不自然なまでの賞賛にあふれている状況」であればバランスをとる意味合いでも必要なのかなと思います。
…と思っていたら,最近やや傾向が(私見としては良い意味で)変わったニュースが挙がっていましたね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/85e9793ef2c41d9760962560ad8b7a975940c742
↑なお,内容自体は6月11日放映の第22話に関するものですので,その(私の)感想は第22話の方に後ほど記させていただきます。
>客観的な批判はむしろ大いになされるべきでしょう
まあ、おっしゃるとおりなんですが、批判って、しだすととめどなくなっちゃいそうなんで。
批判に走り出すと、批判するための粗探しをしながらドラマを観るようになり、そうなると、いいものまで悪く見えてしまうように思えます。
そういう人、ネット上でたくさん見かけますよ。
客観的に評価するためにも、あまり毎回批判するのは良くないという結論に至りました。
最終回を観終えるまでは、できるだけ粗探しをせずに観るように心がけて、それでもやっぱり面白くなかったら、最終回を観終えたあとに批判しよう。
当ブログは基本的に毎年そのスタンスだったのですが、今年、家臣をほったらかして家康が逃げ出したり、突然まったく歴史に無関係のLGBTをぶっこんできたり、小豆と阿月といったくだらないダジャレで脈略のないストーリーを描いてみたり、あまりにもひどい回があったため黙っていられず、つい批判をしてしまいました。
今はちょっと反省しています。
誇張した記事の見出しは、仕方がないんじゃないでしょうか?
どれだけ多くの人に読んでもらうかですからね。
電車の中吊りの週刊誌のキャッチコピーと一緒でしょう。
紹介していただいた記事、読みました。
さすがに、これはこじつけですね。