どうする家康 第17話「三方ヶ原合戦」 ~信玄の進軍ルートと一言坂の戦い~
いよいよ徳川家康の人生最大のピンチと言われる三方ヶ原の戦いに突入します。
元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国の北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。
信玄の侵攻ルートについて、長年にわたって通説となっていたのは、諏訪の方のへ回って信濃から高遠、飯田と天竜川を南下してきて、青崩峠を越えて遠江に入ってきたといわれてきましたが、近年、今回のドラマの時代考証を担当されている芝裕之氏や、歴史家の本多隆成氏らの研究により、従来の通説を大幅に改める新説が出されました。それによると、信玄本隊は富士川筋から南下して駿河に入り、そこから西進して大井川を渡り、遠江へと侵攻してきたとしています。では、従来の通説だった天竜川を南下するルートはなかったのかというと、山県昌景、秋山虎繁らが率いる別動隊がそのルートだったようですね。別動隊は青崩峠を越えて三河に向かい、さらに遠江に進軍して二俣城の攻略時に本隊と合流しました。他方、信玄本隊は駿河から遠江に入り、海岸伝いに進んで高天神城を落としたあと、袋井から見附へと進軍したというのが、現在有力視されている新説です。今回のドラマでも新説に基づいて、鳥居彦衛門元忠から「駿河方より高天神城に向かう大軍ありとのこと!」との報告があり、家康が「高天神はやすやすとは落ちぬ」というも、瞬く間に落とされていましたね。あれが信玄本隊でしょう。
高天神城を落として見附方面へ向かった信玄は、徳川の本城である浜松城と支城の掛川城、高天神城を結ぶ要所・二俣城攻めに向かいました。また、山県ら別動隊も、二俣城に向かいます。二俣城を取られることを避けたい家康は、本多平八郎忠勝、内藤信成らを偵察隊として向かわせますが、その途中、武田の先発隊と遭遇します。偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで追撃し、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まりました。ドラマでは相手は山県昌景となっていましたが、通説では馬場信春隊だったようです。忠勝らは絶体絶命の危機に陥りますが、無謀ともいえる敵中突破でからくも戦場を離脱し、浜松に撤退しました。ドラマで血まみれになって平八郎と叔父の本多忠真が帰参していましたが、この一言坂の戦いでの負傷でしょう。
その後、二俣城を落とした信玄は、いよいよ家康の本拠である浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出るんですね。
信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨の51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。ドラマでは、家康の嫡男・信康や妻の瀬名が住む岡崎を攻めさせないためという理由でしたね。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。
勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む
孫子の言葉ですね。戦いに勝つ方は、まず勝算が立ってから戦いに挑み、負ける方は、戦いが始まってから勝つ方法を考える・・・といったところでしょうか。その論でいえば、後年の家康は間違いなく前者であり、このときの家康は、間違いなく後者でした。その結末は、次週に持ち越しですね。
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by sakanoueno-kumo | 2023-05-08 20:58 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)