どうする家康 第19話「お手付きしてどうする!」 ~武田信玄の死と足利義昭の追放、お万の方の懐妊~
三方ヶ原の戦いで徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中に血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。
通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城で療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。
信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説と肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』や『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血や下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。
ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は胃や食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、肺からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。
信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、実際には信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康も上杉謙信も織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。
ただ、信玄の死を知らなかったっぽい人物がひとりいました。将軍・足利義昭です。義昭は三方ヶ原の戦いから約2か月後の元亀4年2月13日(1573年3月26日)に反信長の兵を挙げました。義昭は信玄の西上を期待していたのでしょう。三方原での敗戦によって、信長の領国である尾張と美濃は、いつ武田軍に攻め込まれてもおかしくない状況になりました。そのため、信長はただちに本国防衛に力を入れなければならず、しかし、そうなると、京都、畿内の兵力は手薄になる。このチャンスに、武田、朝倉、浅井といった反信長勢を集結させれば、一気に形勢逆転できる。義昭はそう考えていたに違いありません。信長への積年の不満が、ここで一気に吹き出したのでしょう。しかし、このときは信長が正親町天皇を動かし、その調停によって、いったんは和睦します。
ところが、同年7月、義昭はまたまた打倒信長に動き出します。しかし、頼みの綱の信玄は、この3か月前に死去していました。義昭はそれを知らなかったのでしょうね。義昭の挙兵は信長の差し向けた大軍によって瞬く間に鎮圧され、義昭は命こそ取られませんでしたが、信長によって京から追放されました。ここに、15代続いた室町幕府は滅亡しました。「滅亡」と言っても死んだわけではないので、まだちょこちょこ悪あがきをするんですけどね。実質的には、ここが足利政権の終焉だったといっていいでしょう。
このあと、信長はすぐさま浅井、朝倉攻めを開始するのですが、ドラマではまったく描かれず、いきなりお市の方と娘たちが救い出されたシーンになっていましたね。まあ、浅井、朝倉攻めは主人公の家康が関わっていない歴史ですから、割愛されても仕方がないでしょうけど。
今回のサブタイトルは「お手付きしてどうする!」ですから、家康のお手付きとなった於万の方についても少しだけ。家康の側室は子を産んだ女性だけでも11人いますが、於万の方は、家康の次男で、のちに結城秀康となる於義伊の生母です。通説では、ドラマで描かれていたとおり、はじめは正室の築山殿(瀬名)の侍女をしていて、のちに家康の侍女となり、家康のお手付きとなったといわれますが、築山殿の侍女だったという当時の記録は残っておらず、史実かどうかはわからないようです。ただ、於万の方は築山殿によって家康の正式な側室として認められず、したがって浜松城での出産も許されず、追放されました。伝承では、嫉妬に狂った築山殿が、お万の方を浜松城内の木に縛り付けて折檻したとも言われますが、歴史家・黒田基樹氏の著書『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』によると、側室を決めるのは正妻の権限であり、於万の方は正妻の築山殿が側室として承認していなかったにもかかわらず懐妊したため、その慣わしによって城外に追放したと説かれています。それが、江戸時代になって、妻の嫉妬などという矮小化した理解になっていった、と。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。第10話で、家康の側室選びオーディションがコミカルに描かれていましたが、ここで於万の方を追放した理由付けをするための伏線だったわけですね。なるほど。
ちなみに、築山殿が於万の方を木に縛り付けて折檻したという伝承は、ドラマでは逆に、於万の方が築山殿の同情を買うために仕込んだ策だったという設定でしたね。なるほど、ドラマの瀬名は悪女じゃないですから、上手い設定だったとは思いますが、そもそもそこまでして描かないといけない伝承でもない気もしますが。
その後、於万の方は城外の豪農・中村源左衛門に屋敷にて於義伊を産みますが、上述した経緯から、家康はしばらくの間、於義伊をわが子として認知しませんでした。認知されるのは、築山殿の死後のことです。それもあって、築山殿の嫉妬説が人口に膾炙されていったのでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2023-05-22 12:20 | どうする家康 | Trackback | Comments(10)

RES遅くなってスミマセン。
今回、なんで非公開コメントなんでしょう?
貴兄がおっしゃる2つのストーリー展開は、どちらも瀬名と信康が武田と内通したという前提になっていますが、はたしてドラマでそう描かれるでしょうか?
通説ではそうですが、一方で、冤罪説も根強くあります。
わたしは、このドラマの瀬名のキャラから言って、武田と内通しそうには思えません。
きっと冤罪説を採るんじゃないでしょうか?
で、その冤罪を生むキーマン(キーウーマン?)が、五徳姫なんじゃないかと。
次回、そのあたりが見えてきそうですね。

宜しく公開願います
そうだったんですね。
ただ、非公開コメントは、コメント主が非公開にチェックを入れたので、ブログ主のわたしでも公開できないんですよ。
なので、下記にコピペしますね。
↓↓↓
Commented by 山城守 at 2023-05-22 19:28
秀吉のお市の方への口の利き方は何とかならないものですかね。
家臣の分際であのような口の利き方はあり得ないです。
したがって、例えば「この羽柴筑前守、身命を賭してお市様をお世話申し上げます。」というような口の利き方が正しいです。
次に、今回のラストで武田勝頼が瀬名と信康に調略を仕掛けることを示唆する場面がありました。
ここから2つのストーリー展開が考えられます。
1調略のため一時的に瀬名、信康が武田と内通した時期があり、それが後年発覚し、信康事件に繋がる。
これなら、「何故落ち目の武田と内通しようとしたか」という疑問は解消されます。何しろ武田信玄が死んだ直後はやはり武田は強大ですし、人材も豊富ですので。
しかし、同時に、「そのような大昔の過ちに切腹まで命じるだろうか。」という疑問が浮上します。
2調略を受けてから、両名は武田にずっと内通していた。
この場合、「長篠の戦いで多数の武田方将校が戦死して武田軍が組織として弱体化しているのに何故いつまでも武田と内通し続けたのか。」という疑問が残ります。
今後、どう合理的説明の付くストーリー展開を用意してくれるのか、今から楽しみです。

父子、夫婦間に確執が生まれて、当てこすりにその最も対立する武将に内通した。だから落ち目とか、そんなことは瀬名や信康にはどうでもよく、また、内通が露見する危険性等もどうでも良かった。
三国志のこのアニメ動画(https://www.youtube.com/watch?v=iZQFZhVNKwA)の再生4分33秒から6分19秒でも陳宮が曹操への当てこすりみたいにして死んでいきますし、当てこすりの自殺行為説というのも案外良いかもしれません。
う~ん。。。
よく言われる悪女の築山殿だったらあり得る話ですが、このドラマの瀬名が、当てこすりなんてするでしょうか?
夫婦仲もいいし、ここで急に夫婦間に確執が出来たり瀬名が家康を裏切るような行為に走ったりしたら、それこそ脚本が破綻しますよ。
ここまで来たら、最後まで夫婦仲は良いままで終わると思います、きっと。
じゃあ、何で瀬名は死ぬことになるんだ?・・・って話ですが、そこは脚本家さんの手腕ですよね。
楽しみにしましょう。

きっとこれは瀬名が家康の心を試したのです。
風呂場での一件が単なる出来心なのか、それとも自分への愛情が冷めてしまったのかを。
ところが家康は優柔不断な性格だから浜松に引き留めることができなかった。
きっと、そこから、あたかもゼラニウムが「声もなく散りゆく」(https://www.youtube.com/watch?v=2D_Ms5j2enQ 太田裕美「恋人たちの100の偽り」)が如く、少しずつ関係が可笑しくなっていくんですよ。
そして、信康事件の回では、今回瀬名を引き留めなかったことを家康が後悔する場面を、幸せだった頃の回想シーンを幾つも出して描くという筋書きですよ。

「私は、ずっと思っておりました。男どもに戦のない世など作れるはずがないと。政もおなごがやればよいのです。そうすれば、男どもにはできぬことが、きっとできるはず」
ツッコミどころが多すぎて,どこからツッコんだらいいのやら状態(だから,「あえて」採り上げられなかったのかもしれませんが。)
■こういうセリフが出てくるのは現代の価値観…しかも「侍女=身分の低い女性」に言わせるという「これまでのストーリーがいかによくても,これだけで駄作」という典型ですね。(別にこれまでのストーリーがよかったとも思っていませんが。)
■100歩譲って(ほんとうは100歩じゃ足りないけど)とりあえず見逃すとしても,それまでのお万の方の行動に、この言葉に至る伏線なり,境遇なりが描かれていましたか?私にはただ家康の湯浴みで髪を解いて,嫌らしい感じを醸し出して視聴者の不興を買っただけにしか見えませんでしたが…?
■野暮は承知でツッコむならば,前作「鎌倉殿」で政子が政治の中心にいた時代は結果的に戦が絶えず,政子が求め続けた「戦のない世」を成し遂げたのはその甥である北条泰時だったという話をしたばかりなのですが…。「そんなこと一介の侍女が知るわけないだろ」と言われそうですが…私は脚本家に言っているのです,「もっと歴史を勉強しなさい」とね。
あ,ちなみにネタバレになるかもですが,このお万のセリフは後の築山事件の「伏線」にはなると言ってよいように思います。(別に伏線というのは誉め言葉とは限らないことも念のため付記させていただきますが。)
おっしゃるとおり、あのセリフでストーリーを台無しにしましたよね。
その前まではまだよかったんですよ。
自作自演で木に縛り付けられて同情を買おうとするも、それを瀬名が見抜いてて、
「わたしはそなたを見くびっていたようじゃ。おっとりしたつつましいおなごじゃと。なんのなんの、才ある子じゃ。これでは、うちの殿などひとたまりもあるまい。見事じゃ。殿から金子をふんだんにいただくがよい。その金で、この子を立派に育てよ。焼けた社も再建するがよい。恥じることはない。それも女子の生きる術じゃ。私は嫌いではないぞ」
と言って縄を解きますよね。
すると、お万が答えます。
「恥じてはおりませぬ。多くのご家臣を亡くされ、お心が疲れ切っている殿をお慰め申し上げたまで。男供は、己の欲しい物を手に入れるために戦をし、人を殺し、奪います。女子はどうやって? 人に尽くし、癒しと安らぎを与えて手に入れるのです。女子の戦い方の方がよほどよう御座います。」
ここで終わっていれば、悪いシーンではなかったと思うんです。
したたかに生きる戦国女性の生き方として。
でも、このあと、おっしゃられる「私はずっと思っておりました・・・」に続くんですよね。
これで、それまでシーンがぶち壊しになりました。
つくづく、この脚本家さんはセンスないなぁと思いましたよ。