八王子城攻城記。 その2 <中の曲輪、松木曲輪、小宮曲輪>
「その1」のつづきです。
登山口から登ること約30分、八王子城本丸下の中の曲輪に到着しました。

左奥に見える建物は、八王子神社の社殿、右手の建物は登山客の休憩所です。

休憩所の横に案内看板があります。

案内図を拡大。
標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪、そして八王子神社のある中の曲輪が配置されています。

中の曲輪は上下2段曲輪になっていて、上段に八王子神社の社殿があります。
石段を上ります。

八王子神社の社殿です。
外観の木材は新しいようで、どうやら最近建てられたようですね。

でも、中を覗くと、かなり古そうな社殿があります。

説明板によると、ここ八王子神社が八王子市の地名の由来と言われているそうです。
延喜16年(916年)、妙行という僧が庵を立て、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子を祀り、八王子権現と称したと伝えられています。
北条氏照がこの地に城を築いた際に、守護神として八王子権現を祀ったことで、この城が「八王子城」と呼ばれるようになったそうです。
現在の社殿は江戸時代末期に建てられたものだそうです。

八王子神社ある中の曲輪の南側、松木曲輪に向かいましょう。

ここを訪れたのは夏真っ盛りの令和4年(2022年)8月6日。
雑草が生い茂っています。

松木曲輪は中の曲輪より1段高くなっています。

松木曲輪です。

大きな石碑が2基あります。

漢文なので読めませんが、扁額には「八王子城址碑」とあり、文中には北条氏照の名前と前田利家、上杉景勝という文字があったので、おそらく天正18年(1590年)6月23日の北陸勢の八王子城攻めのことが書かれているのでしょう。

もうひとつの石碑の扁額は「八王子神社碑」と刻まれていました。

説明板によると、松木曲輪は中山勘解由家範が守っていたといわれている曲輪だそうです。
天正18年(1590年)6月23日の八王子城の戦いの際、家範は前田利家からの降伏勧告を拒み、徹底抗戦して討死しました。
この家範の勇猛ぶりがのちに徳川家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ、水戸
徳川家の家老にまでなったそうです。

松木曲輪は中の丸とも二の丸とも呼ばれていたそうです。

松木曲輪からの眺望です。
説明板によると、晴れていればここから富士山が見えることがあるそうですが、ご覧のとおりの天気なので、よくわかりません。

そもそも東京に土地勘がないので、これがどこの景色かもさっぱりわかりません。

縄張り図が刻まれた石板があります。

ここで昼食!

さて、もう一度、八王子神社のある中の曲輪に戻って。

次は北側の小宮曲輪に向かいます。

ここも中の曲輪より一段高くなっています。

古い狛犬がありますが、社殿などは見られません。
ネットで調べてみたら、以前ここに御岳神社が勧請されていた名残りだそうです。


だから小宮曲輪と呼ぶんでしょうか?

説明板によると、狩野一庵が守っていたといわれている曲輪だそうです。

小宮曲輪は三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていたそうです。
本丸との高低関係でいえば、本丸の次に高いのがここ小宮曲輪だったので、どっちかと言えばここが二の丸で松木曲輪が三の丸のような気がするのですが、説明板では反対のようですね。

さて、いよいよ本丸ですが、長くなっちゃったので、つづきは「その3」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2023-06-01 10:13 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)