八王子城攻城記。 その3 <本丸>
「その2」のつづきです。
いよいよ山頂の八王子城本丸に向かいます。
本丸への登り口は小宮曲輪からのルートと中の曲輪からのルートがありますが、中の曲輪から登ります。
振り返ると、八王子神社の社殿が見えます。
虎口っぽい曲がりくねった道を登ると、石碑と祠が見えてきました。
八王子城本丸です。
石碑には「八王子城本丸址」と刻まれています。
石碑の裏の碑文の上には、どこぞの馬鹿者の名前の落書きがありました。
こういう不届き者は探し出して市中引き回しのうえ晒し首にしてほしいものです。
八王子城は、小田原城を本拠とする北条氏の3代目・北条氏康の三男で、北条氏政の弟にあたる北条氏照が、小田原城の支城として築いた城でした。
関東屈指の山城として知られるこの城は、壮大な規模と構造で、落城時もまだ未完成の状態だったとも言われます。
天下統一を目指す豊臣秀吉は、天正18年(1590年)から本格的な北条討伐を開始します。
氏照をはじめ主力は八王子城を出て小田原城に籠城し、八王子城には留守を預かる横地吉信、狩野一庵ら老武将を中心に、農民、職人、さらには妻子も含めた人々が籠城していました。
その数は4000とも、わずか1000に過ぎなかったともいわれます。
天正18年(1590年)6月23日、秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝を総大将とする北国勢3万5000の大軍が侵攻。
横地らは必死に抗戦するも、多勢に無勢、わずか1日で落城してしまいました。
この八王子城の戦いは、秀吉の小田原攻めのなかでもほかに例を見ない殲滅戦となりました。
城中に残っていた氏照の正室・比左を初めとする城内の婦女子は、辱めを受けることを恐れて滝の上流で自刃し、次々に滝に身を投じたと言われています。
そのため滝は三日三晩、血に染まったといい、麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられます。
この凄惨さには理由がありました。
これまで北国勢は、鉢形城攻めなどに見られたように、城を包囲して降伏開城を迫るといった比較的穏便な侵攻を行ってきました。
しかし、秀吉はこれを「手ぬるい」と批判し、見せしめ的な殺戮も必要だと北国勢に要求しました。
そのため、前田利家や上杉景勝は、最初から八王子城を徹底的に叩くつもりで戦いに臨んでいたわけです。
八王子城の悲劇は、秀吉の思惑通りのシナリオだったわけですね。
本丸の面積はあまり広くはないので、ここに大きな建物はなかったでしょうね。
説明板には、横地監物吉信がここを守っていたと書いてありますが、横地監物吉信が城代だったから本丸にいただとうという想像でしょうね。
城代が必ず本丸にいたかどうかはわかりません。
八王子城落城後、城代の横地監物吉信は敗兵をまとめて檜原城に立て籠もりますが、檜原城も間もなく陥落しました。
自慢の城がわずかな時間で落城したという報せを聞いた北条氏照は、床を叩いて号泣したと伝えられます。
さて、本丸まで攻略しましたが、八王子城跡の見どころはもうひとつ、麓の居館部に御主殿跡が復元されています。
次回「その4」では、その居館部を攻めます。
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by sakanoueno-kumo | 2023-06-03 11:14 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)