どうする家康 第24話「築山へ集え!」 ~築山事件(松平信康自刃事件)前編~
いよいよ物語は、徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件に入ります。松平信康自刃事件とも言いますね。諸説あって謎が多いこの事件ですが、通説とされているのは、江戸時代初期に旗本の大久保忠教が著した『三河物語』の記述です。今回、ドラマでは次週と2回に分けて描かれていたため、今回どこまで述べていいか難しいのですが、『三河物語』をベースに、事件の背景を見てみましょう。
周知のとおり、松平信康の正室・徳姫(ドラマでは五徳)は織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。しかし、ふたりの夫婦仲は上手くいっておらず、徳姫と築山殿の関係も良くなかったといいます。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴を12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、築山殿が唐人医師・滅敬と密通関係にあること、そして、築山殿の信康が武田と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、信長としては捨て置けません。
信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。これにより、信長は家康に信康と築山殿の処分を命じたとされます。信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれた・・・と、『三河物語』は伝えます。
もっとも、『三河物語』は、いわゆる「神君中心史観」と言われる家康ご都合主義で書かれたものであるため、基本的に徳川家に都合よく歴史改ざんされた書物であり、史料としての正確性には欠けるといわれています。おそらくこの事件も、家康が悪人にならないよう、築山殿、徳姫、そして織田信長を悪人とし、酒井忠次を不甲斐ない家臣としたのでしょう。ここから築山殿悪女説が生まれたと思われます。
近年では、「神君中心史観」からの脱却という観点から、築山殿悪女説が見直され、そもそも築山殿と信康の武田内通は事実だったのか、信長からの処分命令はなかったのではないか、徳姫の密書は本当にあったのか、などなど、新たな研究が進んでいるそうです。通説が覆る日も近いかもしれませんね。
そういう背景から、これまで大河ドラマでは、築山事件(松平信康自刃事件)は様々な視点からのフィクションで描かれてきました。通説と言われる伝承の信憑性が低いわけですから、独自の解釈で描きたくなる場面ですしね。今回のドラマも、築山殿悪女説から脱却すべく、いろいろ熟考を重ねられたのでしょうね。で、絞り出された脚本が、「慈愛の国」ですか・・・。お決まりの「戦のない世の中をつくるため」ってやつですね。これ、わたしが大河ドラマで最も聞きたくない台詞です。正直、綺麗ごとでしかありません。諸国と奪い合うのではなく与え合う関係性を築くべきだ・・・と。そんなことが簡単に出来るのなら、プーチンとゼレンスキーも今すぐ握手しますよ。21世紀の現代でもなし得ない理想論を、戦国時代に生きる彼らにできるはずがないし、そもそもそういう先進的な発想に至るはずがありません。もしいたとしたら、危険思想家として即刻殺されるでしょう。だから、男ではなく女性の発想なんだ・・・と? あ~あ、またジェンダー論か・・・。
とまあ、憤りが抑えきれずにぼやいちゃいましたが、結末は次回なので、このあたりにしておきます。
ちなみに、ドラマでは滅敬=穴山信君という設定でしたが、これはもちろんドラマの創作です。築山殿と穴山信君がゲス不倫するのか!・・・と思いましたが、そうならなくて良かった(笑)。ちなみにちなみに、服部半蔵が大鼠を口説こうとして袖にされるシーンは笑っちゃいました。
「殺すぞ!」
「えっ・・・(汗)」
まさに瞬殺ってやつでしたね(笑)。
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by sakanoueno-kumo | 2023-06-26 18:42 | どうする家康 | Trackback | Comments(19)

そして、その時代からすれば突拍子もない発想だから失敗していのちを散らしたと考えれば合点はいきます。
今回ばかりは満点付けて差し支えないでしょう。

そうであれば、合戦に拠らず紛争を解決することが最善と考えるのも至極自然なことであり、あくまで合戦は致し方なくしているという解釈に誤りはないでしょう。
そして、その理想が現実とあまりにもかけ離れていたために上手くいかずに失敗したというのも絶対に間違いとは言えないでしょう。
これが武田の最盛期や長篠の戦前に瀬名、信康が武田と内通していて、前期の理想を云々していたら、それは明らかな誤りですが、今回は前期理想を追った、より正確に言えば合戦で精神に故障を来した信康のために武田と争わずに済む方法を模索し、結果、諸般の事情で失敗したというのは決して荒唐無稽ではないでしょう。
寧ろ、それ以外、どうやって落ち目の武田に徳川家正室築山殿、同家嫡男信康が内通する理由を説明できましょうか。

「えっ・・・(汗)」
服部半蔵は女性への口説き方を勉強した方が良いですね。
「私はずっとあなたを見ていた。私の傍にいて、ずっと微笑んでいてはくれないか。その代わり、あなたが泣きたい時は一緒に泣く。」とか言えば良かったものを
今まで何度もえぇ〜と言っていた家康ですがさすがに今回は度が過ぎましたね。瀬名のお花畑構想に敵味方で全乗りする面々。勝頼の言っていることの方が戦国の正論ですよね。
ただ瀬名役が有村架純と聞いたとき何となく嫌な予感はしてました。有村架純に汚れ役をやらすことはできないから瀬名=聖女をねじ込むのは多分当初からの既定路線。でもこんな話でも賛否があるんですよね。えっ、賛があるのΣ(゚Д゚)
どうも今の若い人はわかりやすくて安い、笑える、泣けるにすぐ感動しますね。脚本家としてはちょろいんでしょうね。
今川氏真は長篠の合戦の天正3年に京の相国寺で信長と会見、蹴鞠を見せて、木綿百反を帆布にして献上。長篠では徳川勢として牛久保城で後詰を務めたようです。駿河奪還の願望があったようですがひょつとしたら築山ぐらいには寄ったかもしれませんね(笑)。しかし、氏真ってけっこう家康と絡んでるんし、したたかに生き抜いて最後は品川で亡くなった時には信玄も信長も秀吉もすべて亡くなっていて彼は天下人の誰よりも長く生きた。最後の勝者は氏真だと私は思っています。

これが飛ぶ鳥を落とす勢いの大名等ならそうなのですが、勝頼はその時点では多くの将校を長篠の戦で失って落ち目ですからね。寧ろ、瀬名の構想に乗らないと生きる道はないでしょう。だから弱体化した武田家と合戦で精神に異常を来した信康、その母瀬名の利害が合致したというのも、あながち誤りとは言い切れますまい。
「有村架純に汚れ役をやらすことはできないから瀬名=聖女をねじ込むのは多分当初からの既定路線」(出展同じ)というのも、飛躍していると思いますよ。
何しろ「瀬名のお花畑構想」がないと、長篠の戦以降落ち目の武田と瀬名、信康が内通する理由を見出せませんので。
戦国時代の常識的な論理、即ち誰と組んだ方が所領が増やせるか等で言えば、誰も信長から離反して落ち目の武田に内通しようなんて思いません。だったら、一度その「常識」を取り払うのも決して悪くはない。
このドラマは家康が「浅井が良い人だから」と言う理由で浅井に味方しようとしたり、家康が氏真から「信長を討ち果たしてから帰って来い。」といわれ、つまりは三河の小領主で信長と独力で戦うよう強いられたにも関わらずその手紙を見て無邪気に喜ぶは、秀吉がお市の方に向かって「サルじゃねえけ。羽柴筑前守じゃ。」と失礼千万な口の利き方をする、奥平が武田から家康に寝返ったその事情が描かれず、家康と信長の茶番に多くの尺が割かれる等、多くの減点事由を持つドラマですが、今回ばかりは満点を付けて差し支えないでしょう。
RES遅くなって申し訳ありません。
貴兄がこの展開を肯定するとは意外でした。
家康への当てこすりとかおっしゃってたのに・・・。
わたしは、合理的説明がつくかつかないかという以前に、いくら辻褄が合っても、この時代の、しかも女性に、こんな現代チックは飛躍した発想ができるはずがないと思います。
これぞまさに、歴史ドラマでいちばんやっちゃいけない現代価値観の刷り込みですよ。
「助け合い」とか「話し合い」とか、戦後、ここ半世紀ほどの思想ですから。
貴兄は、このときの落ち目の武田と結ぶ理由が見出せないとおっしゃいますが、これも、歴史の結果を知っている後世からの俯瞰的見解ですね。
当時を生きる彼らが、しかも女の築山殿や若輩の信康が、それをどこまで理解していたかわかりません。
腐っても武田と思っていたって不思議ではないでしょう。
織田と武田をい天秤にかけて、織田を離反して武田に内通しようなんて誰も思わない・・・とおっしゃいますが、そもそも織田がこの時点でどこまで信用できたか。
事実、松永、小寺、赤井、荒木、そして最後は明智と、この天正5年から10年のあたりで多くの武将が離反しています。
信康と築山殿が本当に武田との内通していたかどうかはわかりませんが、徳川内部が織田派と武田派に分かれていたといわれていますよね。
落ち目の武田と結ぶ理由が見出せないのなら、徳川内部が両派に分裂する理由もないでしょう。
貴兄のご意見は、後世から見た結果論だとわたしは思います。
わたしは瀬名=聖女でもいいと思うんですよ。
そもそも築山殿悪女説は、『三河物語』の「神君中心史観」が作り出した虚構だと思うので。
ドラマですし、家康と瀬名が仲睦まじい夫婦だったという設定ならば、瀬名は夫思いの妻のまま死んでいくべきでしょう。
だから、瀬名=良妻の設定はぜんぜんオッケーなんですが、おっしゃるように、瀬名のお花畑構想に敵味方で全乗りする面々ってのは、まったくもっていただけないですよね。
女がまつりごとをすれば平和な発想になるっていう短絡的な脚本も、ウンザリです。
高市早苗さんが総理になったら、隣国との関係は悪くなりますよ(笑)。
慈愛というなら、わたしは普通に夫と息子に向けた慈愛で死んでほしかった。
織田を信用できず、織田から夫と息子を守るため、自らの命を犠牲にする、そういう話で良かったのに・・・って思いますね。
「死ね!」はマジで死ねって思ってるわけではないです。
あの場合すごく嬉しかったけど「死ね」って恥じらいを隠すために真逆を言ってしまう女心を男子諸君は理解しないといけない(笑)
築山のお話・・・・・あほらし過ぎてコメントも書きたくないです。wwwww
なるほど!
わたしを含め、男どもは女心をわかってない!!!ってやつですね。
さすが姉御です。(笑)
で、その姉御をもってしても築山殿のお花畑構想はダメですか!
たぶん、脚本家は女性視聴者の共感を狙った発想だったはずですよ、きっと。
とすれば、脚本家も女心をわかってないってやつですね。


ただ,こうした「新しい考え」というのは例外なく「一定数の反論があり,場合によっては拒絶」されていますし,それは至極当然のことなのです。なぜならそのときの価値観を否定するということは,その時代を生きてきたその人ひとりひとりの人生プロセス,アイデンティティをある意味否定することでもあり,そうたやすく受け入れられるはずがないからです。

以前「本大河ドラマの脚本家古沢良太氏はストーリーを描けるが,人間を描けない」と評した(のを見聞きしたと紹介した)ことがあります。(第10話か,12話あたりのコメントだったと記憶しています。)最初のコメントで前作鎌倉殿の第24話「変わらぬ人」の名前を出しましたが,(あまり比較するのもよくないのでしょうが)人間を描く(見せるだけでなく魅せる)力…三谷幸喜さんと残念ながら大きな開きがあるといわざるを得ない…と言ったところでしょうか。
まさに我が意を得たり。
貴兄の説かれるところに何の異論もありません。
代弁していただき、ありがとうございます。
25話の稿で書くことなくなっちゃった感じです(苦笑)。
ひとつだけ補足させてもらうと、前作の宗時の吐露した思いは、勇ましい性格の武士なら一度は思っただろう野望だと思いますし、大谷の偉業も、過去、桑田や松坂らも同じような夢を描いていたと発言していたと思います。
野球をやっていれば、そして類まれなる才能を持っていると自覚すれば、歴史に名を残す選手になりたいと思う欲求は、宗時が武士のてっぺんに立ちたいといった野望と同じように思います。
ガリレオにしてもダーウィンにしても、学者として、真実を追求したい、新説を唱えて歴史に名を残したいという欲求でいえば、やはり同じかもしれません。
つまり、みんな自身の夢や野望を叶えるために達成した偉業であり、決して世のため人のためにしたわけではありません。
結果、そうなっただけで。
ところが、大河ドラマにおける「戦のない世の中をつくる」というお決まりの言葉は、あまりにも聖人君子的夢であり、人間味がこれぽっちも感じられません。
だから嘘くさくて共感できないんですよ。
戦のない世の中をつくるための戦・・・なんて、屁理屈もいいとこだと思いませんか?
おっしゃるように、戦国時代にも戦は嫌だと思っていた人はいたでしょうけど、たぶんそんな人は、武士の身分を捨てて田畑を耕す道を選んだでしょう。
戦のない世の中をつくるため、世のため人のために命を懸けて戦っていた武将なんて、わたしはいないと思いますね。

あと、大河ドラマは史実に基づいたフィクションなのだから、悪者、ヒール役を作ればいいのに、みんながみんな、義や慈愛を持っているという展開には無理があるよ〜、三谷さんの脚本に憧れるのは分かるけど、みんながみんなはね〜。もっと骨太な大河が見たい!
現代価値観といっても、その現代ですら実現していないですからね。
慈愛の国なんて。
たぶん、物語の最終回は、家康は瀬名の夢だった戦のない国を作ったって結末になるのでしょうが、徳川260年の江戸時代は、戦はなかったけれど慈愛の国ではありません。
圧倒的な軍事力と粛清で治めた国です。
おっしゃるように、本作に限らず、近年の作品では本当の悪人は出てこないですよね。
今回、秀吉が不気味な存在感を出していますが、結局最後はいい人にしてしまいそうな気がします。
映画のドラえもんにあけるジャイアンみたいに・・・。
でも、現実の世界には、悪人というのはいるわけで、みんな善人にしちゃうから、話が嘘くさくなっちゃうんですよね。

たとえばりく(宮沢りえさん)…はじめは悪女というより京都の賢い女…が,時政が権力を持ち,そして自身の子政範の死によって悪女になっていきましたが…それでもオンベレブンビンバのシーンでひとり時政の館で政範の遺髪を抱いて悲しみにふけるシーンは,母親の悲哀と「これなら時政じゃなくても,この女のために死ねる」と思う説得力があり,また最後まで義時や政子の前では弱みを見せない凛とした魅力がありました。
また実衣(宮澤エマさん)も夫全成の死によって,権力欲に取りつかれていきますが,行動原理としては「阿野全成の名を遺す」という想いがあり,それゆえに三浦義村にだまされて阿野時元の乱を起こしてしまう「ある意味では浅はか…けど,ある意味では悪女になり切れない」魅力のようなものがありました。
そしてのえ(菊地凛子さん)も小物感,りくの下位互換のような感じも最初はありつつ,最後義時に捨て台詞を吐いて去るシーンはさすが菊地凛子さんと思わされました。
脚本家と演じる女優の力量があれば,悪女こそむしろ魅力的ですらあると思うのですが…どうする家康では脚本家and/or演じる女優にそれだけの力量がなかったということでしょうか,残念ながら。
そもそも悪女の定義ってなんぞや?って話ですよね。
三大悪女を見ても、日野富子と淀殿は、権力を持ったモンスターペアレントだったってだけだし、北条政子に至っては、嫉妬深く気性が荒い女性だったといわれますが、夫と息子たちに先立たれながらも鎌倉幕府を守った女性であり、悪女というより賢女という形容こそがふさわしいかと。
じゃあ、築山殿はどうかといえば、ちゃんとわかっているのは何らかの理由で信康切腹の半月前に家康の家臣によって殺されたってことだけです。
悪女ってのは、どの部分を誰目線で見たときの評価でしょうね。
おっしゃるように、聖女より悪女の方が魅力的ですよね。
少なくとも物語の世界では。
いや、実際の世界でも、ちょっと悪女系の方がいいかも(笑)。
おっしゃるように、『鎌倉殿』には聖女はひとりも出てこなかった。
男性陣を見渡しても、聖人君子は誰もいなかった。
でも、一方で、根っからの悪人もいなかった。
そういう人間っぽさが良かったんでしょうね。
その意味では、本作の瀬名はあまりにも聖女すぎて、共感できないですね。
でも、それは脚本家が悪いのであって、有村架純さんが悪いわけではないと思いますよ。
彼女は、悪女の設定なら悪女を演じれる女優さんだと思います。

〇「世にも奇妙な物語」に出てくる「理想の彼女」
〇「笑うせえるすまん」で喪黒福造から主人公に提供される「理想の彼女」
みたいな感じなんですよね。アンドロイドみたいで人間味を感じないというか,ここまでのドラマの流れ的には
〇夫の裏切りによって侍女が処刑され,自身の身も危険にさらされる。(第3話)
〇親友お田津の裏切りによってさらに自身の身も危険にさらされ,結果的に両親は命を落とすことになる。(第5話~6話)
〇その親友も夫の手によって(もちろん直接ではないにせよ)命を落とす。(第11話)
などといった経験を経ていながら,まったく負の感情が蓄積されない,構築されない…負の感情がなさすぎて不気味,怖いの領域に達しているんですよね。
なお,冒頭で例として挙げた世にも奇妙な物語でも,笑うせえるすまんでも,たいていこの手の「人工的聖女」が登場する会はバッドエンド(主人公が何らかのタブーを犯して,転落するというパターン)ですね。それを想起させるが故の不気味さ,怖さというのもあるのかも…。
スミマセン。
「世にも奇妙な物語」と「笑うせえるすまん」の例、よくわかりません(汗)。
まあ、人間味がないというのは理解できます。
良妻賢母はいいとして、人間、恨みも抱けば嫉妬もするものですからね。
おっしゃるようなつらい経験を重ねても心が清らかなまま・・・ある意味、これはこれでサイコパスかもしれませんね(笑)。