武蔵滝山城攻城を歩く。 その3 <本丸>
「その2」のつづきです。
滝山城といえば、最も有名なのが、中ノ丸と本丸の間の深い大堀切と、そこに架かる復元木橋のロケーションですね。
これがこれ。
堀切が深い!
堀底に設置されていた木橋の説明板です。
当時の木橋はもう少し下に架けられていたそうです。
また、大堀切ももっと深かったと書かれていますね。
これよりまだ深かったのか!
それはすごい!
本丸への南側枡形虎口です。
その説明板。
いざ、本丸へ!
上から見た枡形虎口です。
本丸には、「史蹟 滝山城跡」と刻まれた石碑や、顕彰碑が建てられています。
「その1」「その2」でも述べたとおり、現在残る遺構は永禄元年(1558年)頃に北条氏照が城の大改修を施したときのものと考えられます。
永禄12年(1569年)には、小田原攻撃に向かう武田信玄が2万の軍勢を率いて武蔵国に侵攻し、滝山城の北側の拝島に陣を敷きました。
このとき、滝山城にはわずか2000の兵が籠り、落城寸前まで追い詰められますが、かろうじて持ちこたえました。
しかし、この戦いによって滝山城の防御力の弱さを痛感した氏照は、八王子城を築いて本拠を移し、滝山城は廃城になったと考えられています。
本丸は二段曲輪になっていて、現在、上段には霞神社が鎮座しています。
霞神社の社です。
滝山霞神社は、加住地区の日露戦争戦没者15柱を奉斎するために明治45年(1912年)に創建、その後の満州事変、支那事変及び大東亜戦争戦没者129柱を加えているそうです。
本丸上段から見下ろした本丸下段です。
霞神社の社の裏側にも、本丸上段曲輪は伸びています。
ここにも社があります。
扁額には金毘羅社とあります。
その横には、金毘羅社再建之碑があります。
その由来分には、200余年前の天明(1781年~)年代にここに金毘羅社があったそうで、平成6年(1995年)に再建されたそうです。
その社に後ろには、土塁が盛られています。
そこから見下ろすと、深い堀切が。
本丸北側には、眺望の利く場所があります。
本丸からの北側眺望です。
ただ、土地勘のない関西人のわたしとしては、これがどこの景色かわかりません。
説明板には、滝集落から本丸への侵入路とあります。
搦手道のようですね。

さて、本丸まで制覇しましたが、もう少し城跡を歩いてみましょう。
「その4」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2023-06-29 20:22 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)