瀬戸内海を望む現存天守、讃岐丸亀城を歩く。 その7 <三ノ丸南側・搦手道>
「その6」のつづきです。
丸亀城本丸まで制覇したので、また三ノ丸まで下りてきました。
「その3」で三ノ丸北側を歩いたので、次は南側に向けて歩きます。

その前に、三ノ丸東側に独立した櫓台が復元されています。
行ってみましょう。

その説明板。

「その3」で紹介した「生駒坂」と呼ばれる坂を登りながら東側の高石垣を見上げましたが、あの上ですね。

櫓台上にやってきました。

北側の瀬戸内海が一望できます。

瀬戸大橋も見えます。

西側を見ると、「その3」で見た三ノ丸高石垣が見えます。

下を見下ろすと、「その1」で紹介した内堀が見えます。

東櫓台を降りて、三ノ丸東側を南に向かって歩きます。

三ノ丸南東の月見櫓跡です。


たぶん、礎石跡でしょうね。

そして南東に、讃岐富士こと飯野山が見えます。

月見櫓という呼び名のごとく、ここで月見をしていたのかも。

真東には青ノ山が見えます。

月見櫓を降りて、南東から見上げた二ノ丸南東櫓台石垣。

角度を変えて。
石垣の曲線美ですね。

三ノ丸南側に、「勤王碑」と刻まれた大きな石碑があります。

看板の文字が消えてしまっていて読めないのですが、ネットで調べてみると、この碑は、幕未から明治初めに活躍した郷土の勤王志士・土肥実光(大作)、村岡宗四郎が大正8年(1919年)贈位されたのを記念し、勤王志士遣烈列表彰会が大正12年(1923年)に建立したそうです。
土肥大作は、天保8年(1837年)に現城西町で生まれ、征討軍参謀を経て新治県(茨城県)参事在任中、明治5年(1872年)3月、36歳で死亡したそうです。
村岡宗四郎は、弘化2年(1845年)に魚屋町で生まれ、母箏子は、香川郡円座村の勤王家小橋道寧の息女。
その影響で勤王を志し活躍中、慶応3年(1867年)1月、22歳で死亡したそうです。
土肥大作、村岡宗四郎、という人物はわたしは知らなかったのですが、丸亀藩は比較的早くから勤王派を公言していました。

幕末といえば、文久元年(1861年)、土佐藩を脱藩する前の坂本龍馬が、ここ丸亀を訪れています。
剣術詮議という名目で旅をしていた龍馬でしたが、本当の目的は長州の攘夷運動を探りに行く途中のことでした。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』のなかで、そのときのことが書かれています。
讃州丸亀に入ったのは、十月もなかばのことである。
丸亀は、京極氏五万千五百石の城下で、城は蓬莱城といわれ、小さいがなかなか姿がいいい。
町家のたたずまいが、土佐とくらべるとどことなく優美で、
(五万石ながら、諸侯のなかでもさすがきっての名家といわれる京極家の膝もとだけはある)
と、本町通を歩きながら竜馬は感心した。
(同じ四国ながら土佐は野蛮じゃな)
妙なものだ。二十四万石の城下からやってきて、かえって土佐が田舎臭く思われるのは、讃州の地が、上方の風俗が濃く影響しているからであろう。
<小説『竜馬がゆく』より抜粋>

南側高石垣に沿って歩きます。

見事な石垣の曲線美。

南西は、石垣崩落の復旧作業現場のため、立入禁止でした。

搦手道を下ります。

生駒親正によって慶長2年(1597年)に築かれた当時の丸亀城は、大手門が今と逆の南側にあったそうで、もともとこの城は、背後の瀬戸内海を天然の堀として、平野が広がる南からの敵を想定した構えだったそうです。

ってことは、かつてはこっちが大手道だったってことですね。

石垣美。


曲がりくねった搦手道の途中にある栃の木御門跡。


おそらく、往時にはここに櫓門があったのでしょうね。



とにかく、搦手道の幾重にも重なる石垣美は、芸術ともいえます。

大手門に戻ってきました。
坂本龍馬が丸亀に滞在したのはわずか1か月だけでしたが、おそらく、この豪壮な石垣と白亜の天守を、同じように見上げていたでしょうね。

これで丸亀城をすべて攻略しましたが、もう一回だけ丸亀城シリーズ続けます。
「その8」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2023-09-12 23:31 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)