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どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~

 九州を平定した豊臣秀吉にとって、残る大敵は相模国小田原城主の北条氏のみとなりました。北条は関東一円に300近い領地を支配する大大名で、徳川家康とも同盟関係にあったことから、当初は秀吉も北条と事を構えるつもりはなく、おとなしく臣下に下ってくれればそれでよかったのですが、家康を介して説得を重ねるも、北条氏政・氏直父子は、頑なに上洛を拒否し続けます。その理由は、信濃国から上野国の沼田に勢力を伸ばしつつあった真田昌幸との領土問題が解決していないから、というものでした。


 であればと、秀吉は仲介に入ります。秀吉は真田氏が占領していた沼田3万石のうち3分の2を北条氏に返還させ、名胡桃城を含む3分の1を真田氏のものとする裁定を下し、氏政・氏直父子のどちらかの上洛を約束させました。これですべてが上手く治まったかに見えたのですが、それでも北条氏は重い腰を上げようとはせず、そんななか、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が名胡桃城を武力で奪い返す事件が発生。これに怒った秀吉は、大名同士の私闘を禁じた惣無事令に反するとして、小田原征伐を諸大名に発令。宣戦を布告します。


 どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~_e0158128_17382838.jpg天正18年(1590年)3月、秀吉は総勢22という大軍を引き連れ、小田原城に向かいました。その先鋒を任されたのは、ほかならぬ徳川家康でした。家康の軍は北条の誇る箱根の山の堅城・山中城をあっけなく1日で落とすと、さらに、鷹ノ巣城、足柄城をつぎつぎと落とし、43日には小田原に到着しました。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧や武器弾薬は豊富に備蓄され、支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、九州も平定して天下統一目前の豊臣軍は、これまでの敵とはすべてにおいて桁違いでした。豊臣軍は端から小田原城に攻め込む気などなく、大軍で包囲して城に籠もらせることが目的でした。このあたり、氏政・氏直父子の読みが甘かったといえるでしょうね。


 どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~_e0158128_20393670.jpg豊臣軍は小田原城に睨みを効かせて閉じこめておきつつ、周りの支城を次々に落としていきます。更に追い打ちをかけるように、北条氏と同盟関係にあった伊達政宗までもが豊臣軍の傘下に下ります。もはや北条氏に味方する大名はおらず、孤立無援状態となった城内では、士気が下がる一方でした。そんなとき、小田原城に籠もる城兵たちの度肝をぬく出来事が起こります。小田原城からわずか3ほどの距離にある山上に、突如、豊臣軍の城が姿を表したんですね。この城は一夜にして完成したという逸話から、「石垣山一夜城」と称されますが、もちろん一夜で築かれたなんてことはあり得ないわけで、着陣早々から秀吉は小田原城から見えない場所に密かに築城を進め、城が完成したと同時に周りの樹木を伐採するといった演出を実行したため、それを見ていた小田原城の籠城兵たちは、まるで突然城が姿を表したとしか思えない錯覚に陥り、その秀吉の規格外な力を目の当たりにして、ますます士気が下がります。


 ここまでくればもはや勝負は決したも同然秀吉はこの機を逃さんとばかりに側近の黒田官兵衛孝高を交渉役として小田原城に送り(家康ではありません)、降伏を促します。そして、小田原城籠城からわずか3ヶ月の天正18年(1590年)76日、ついに小田原城は開城し、氏政とその弟で主戦論を唱えていた八王子城主の北条氏照切腹。氏直は家康の嘆願もあり死罪を免れるも、高野山へ送られました。ここに、北条早雲以来、5代、100年に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅亡します。


 どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~_e0158128_20450078.jpg北条征伐が終わった713日、小田原城中において論功行賞があり、先鋒を務めた家康には北条氏の旧領関八州が与えられました。その代わりに、旧領である駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5か国は召し上げられます。関東には、それまで敵対していた北条の余風がそのまま残っており、しかも、旧領の5か国支配はようやく軌道に乗り始めたばかり。駿府城もやっと完成したばかりでした。石高は増えても、これは栄転ではなく左遷であり、実力者の家康を上方から遠ざけるための秀吉の策だった・・・というのが、一般的な解釈ですね。でも、本当にそうだったのでしょうか? というのも、秀吉の天下統一事業において国替えを命じられたのは、家康だけではありません。同じく北条征伐のあとに蒲生氏郷も陸奥国会津に移封されていますし、黒田官兵衛孝高は九州平定後に豊前へ移され、上杉景勝ものちに越後から会津120万石へ加増移封されています。そして、そのどれもが秀吉から厚い信頼を受けていた武将たちばかりでした。家康の関東移封も、秀吉にしてみれば、家康の統治能力を見込んでのことだったのかもしれません。ところが、家康の家臣たちにしてみれば、愛着のある三河や駿河を離れるのは受け入れがたいことだった。それが、後世に左遷のように伝わったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、今回、石垣山城での立小便シーンは秀吉ひとりでしたね。従来の伝承では、家康と共に連れ小便をしながら国替えを言い渡すというものだったと思うのですが、さすがにジャニーズには立小便はさせられない? あっ!ジャニーズってワードはNG? まだいい?(笑)


 北条氏の滅亡、伊達氏の降伏をもって、秀吉の天下統一事業はほぼ完成しました。ちなみにドラマでは、天下統一のことを「天下一統」といっていましたが、「天下統一」という言葉が使われだしたのは江戸時代以降のことだそうで、この時代は、「一統」といっていたそうです。しかし、その天下一統が実現したときから、すでに豊臣政権は崩壊の道をたどり始めていました。


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by sakanoueno-kumo | 2023-10-02 17:43 | どうする家康 | Trackback | Comments(2)

 

Commented by sabertiger54 at 2023-10-07 12:50
こんにちは。
家康の江戸入りは今までは単に警戒されてと言われてましたが今は、寧ろ江戸という要衝の地を家康に与えて豊臣政権の東国統治の中心にする考えだったという説もあるようですね。おそらくこの時点では家康と秀吉の関係はそれほど悪くなかったのでしょう。でも自分だったら家康に250万石の領地は与えなかったかな。旧領のままの方がまだ安全だったと思います。(寧ろ背後の北条旧領には親豊臣系大名を入れます)
天下一統ですが「天下」という語自体は16世紀には「京を含む五畿内」を指していたみたいですね。いつ頃から全国を指す言葉になったのでしょうかね。
豊臣秀長の死は本当に痛かった。実質的な四国・九州征伐の指揮を取り豊臣政権の支柱ともいうべき人物だった。組織ってけっこう法やシステムより個人の能力・カリスマで支えられているんですよね。司馬遼太郎の「豊臣家の人々」を読むとそう思いますよ。
松潤の小便シーン観たかったですが忖度でしょうね(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2023-10-11 18:52
> sabertiger54さん

RES遅くなって申し訳ありません。
おっしゃるように、家康に東国統治を任せようという考えだったとする説が有力になりつつあるようですね。
鎌倉幕府も室町幕府も探題府をおいていたように。
家康が東国に追いやられたという考え方は、江戸時代に入ってからのこと。
まあ、たしかに慣れ親しんだ三河や駿府を動きたくないという気持ちはあったかもしれませんが、少なくとも秀吉サイドは、決して左遷という趣旨で家康を江戸に行かせたわけではなかったんじゃないかと。

>「天下」という語自体は16世紀には「京を含む五畿内」を指していた

これもおっしゃるとおりで、少なくとも信長の時代まではそういう解釈だったようですね。
おそらくですが、全国を指すようになったのは、やはり秀吉の天下からではないでしょうか?

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