天下一の高石垣を誇る伊賀上野城。 その4 <城代屋敷跡(筒井古城跡)>
「その3」の続きです。
伊賀上野城本丸西側を制覇したので、続いて本丸東側の城代屋敷跡を歩きます。
ここは藤堂高虎が改修する以前は、筒井氏の城がありました。
その筒井古城跡に、高虎は城代屋敷を築きました。

「その1」で見た城門跡から西側に向かい、石段を上ります。

城代屋敷跡の高石垣です。

出隅は算木積み。

矢穴がいっぱい!

大きな枡形門です。

伊賀上野城の前身は天正7年(1579年)、織田信雄と伊賀の土豪が戦った「天正伊賀の乱」で焼けた平楽寺の跡地に、信雄の家臣・滝川雄利が砦を築いたのが最初だとされています。
その後、天正13年(1585年)に、大和郡山から伊賀へと移された筒井定次が、ここに本格的な城を築きました。

豊臣秀吉の天下統一の政策で、大和郡山には弟の豊臣秀長が入り、定次はその周囲を守備するかたちで、伊賀へと国替えされました。
定次は伊賀に入るとすぐに、伊賀の守護だった仁木氏の館跡に仮館を建て、平楽寺・薬師寺に三重の天守をもつ新たな城を築きました。

城代屋敷跡です。

屋敷跡の案内板。

広い!

ここに筒井氏時代、三重三階の天守がありました。

屋敷跡からさっきの枡形虎口を見下します。

立て札には「長屋群」とあります。

池のある庭があったようですね。

こうして地面に間取りの記されたプレートが埋め込まれています。
ちゃんと図面が残っているため、詳細にわかっているようですね。

定次は羽柴姓を許されるほど秀吉から信任を得ていましたが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、城を留守居役の筒井玄蕃に任せて、会津征伐に出陣します。
その際、城主不在の伊賀上野城を襲撃したのが、摂津高槻城主だった新庄直頼・直定父子でした。
攻撃を受けた玄蕃は、戦わずに城を明け渡し、高野山へと逃亡してしまい、伊賀上野城は一時的に西軍の新庄氏に占領されました。
報せを受けた定次は、家康の許可を得てすぐに引き返し、城を奪還しています。

関ヶ原の戦い後、高槻城主の新庄直頼は所領没収となり、定次は本領を安堵され、伊賀上野藩を立藩しました。
ところが、慶長13年(1608年)に定次は幕命により改易となり、鳥居忠政のもとに預けられることとなりました。
その理由は、失策が多かったことを咎められてのことなど諸説ありますが、実際は、豊臣恩顧大名として危険視されたからと考えられます。

筒井氏に代わって藤堂高虎が入国すると、慶長16年(1611年)正月より伊賀上野城の大幅な改修に着手したという話は、「その1」で述べたとおりです。
その際、高虎は城域を筒井氏時代の約3倍に拡張し、五重の天守を築こうとするも、大嵐で倒壊したという話は「その3」で述べましたね。

その後、大坂の陣後の一国一城令でも、伊賀上野城は津藩の支城として認められ、明治維新まで藤堂氏の一族が伊賀上野城の城代として支配し続けることになります。

井間周辺。

台所棟。

北側には「城代役所跡」と刻まれた石碑があります。

ここは何だろう?

看板に記された図面によると、第納戸蔵跡のようです。

そこから西に目を向けると、模擬天守が。
その手前に見える石垣が、台所門跡。
石垣が食い違っているのがわかるでしょうか?

台所門跡の石垣の上に上ってみます。

そこから北側に伸びる石垣は、さっきの図面によれば長屋跡のようです。

上から見下ろした台所門跡。
「裏門」とも言われていたようです。
さっきの枡形門が表門、こっちは裏門だったんですね。

下から見上げた台所門跡(裏門)。

西側の天守を眺めます。

西側から見た台所門から長屋跡への石垣。

さて、城代屋敷跡南側に来ました。

ここも高石垣がつづいています。


矢穴だらけ!

そして城跡公園東側にやってきました。
東側には石垣はありませんが、深い谷の底に道路が走っています。
これ、たぶん往時は堀だったのでしょうね。

道路に降りてきました。
これ、ぜったい堀跡でしょうね。

さて、伊賀上野城をすべて攻略しました。
最後に続100名城のスタンプと御城印を載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2023-10-19 00:44 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
こうなると、もう、これは文化財だなと。
それが、昭和期に建てられたほとんどの天守が鉄筋コンクリート製なのに対し、ここは珍しく木造建築の天守で、その意味では価値があるとも言えます。
おっしゃるいように、これはこれで文化財ですよね。
同じ時期に築かれた大阪城天守は、鉄筋コンクリート造りなのに国の有形文化財に登録されていますから。
ただ、本文中でも述べたように、大阪城の天守は一応史料に基づいて再建されていますが、ここの天守は高虎が築こうとした天守とは全く似ても似つかない模擬天守。
なんでこんなもん作ったのかなぁ、と。