どうする家康 第41話「逆襲の三成」 ~家康暗殺計画、直江状、内府ちがひの条々~
石田三成の失脚から約半年後の慶長4年(1599年)9月、今度は徳川家康を暗殺しようとする企てがあることが発覚します。その首謀者は金沢に帰国している前田利長で、それに浅野長政や大野治長、土方雄久が加担しているというものでした。これにより、家康は浅野長政に国元での蟄居を命じ、大野治長、土方雄久を流罪に処しました。のちに大坂の陣で豊臣方の中心的存在となる大野治長が、歴史の舞台に名を現した最初の出来事です。また、ドラマでは描かれていませんでしたが、家康はさらに加賀の前田利長にも追及の手を伸ばし、利長が国元で城の修築および武器を集積している行為を挙兵反乱の意図であると断じ、北陸討伐を発令しました。これに震え上がった利長は、弁明の証として母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送り、恭順の意を表しました。
この家康暗殺計画、本当にあったのかどうか、歴史家さんたちの間でも意見が分かれるところですね。家康が前田や浅野を失脚させるために仕組んだ捏造だったという見方もあるようですが、その真偽は定かではありません。
続いて翌慶長5年(1600年)4月、三成と昵懇だった(といわれる)会津国の上杉景勝が、徳川家康との対立姿勢を示します。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します。世に言う「直江状」ですね。
この直江状についても、本当にあったのかどうか、意見が分かれるところですね。実際、直江状の原本は残っておらず、現在伝わっているものは複数あり、これらは後世の写しと言われています。内容も微妙に違っており、そのため解釈もさまざま。直江状に否定的な見解の根拠としては、文言があまりにも過激すぎること、当時の文言にそぐわない表現があることなどが挙げられます。一方、肯定的な意見の歴史家さんたちの主張としては、一部、文言が後世に改ざんされた可能性はあるとしながらも、直江兼続からの書状を見て家康が激怒したという事実は複数の史料でも確認できる事実であり、直江状は実在していたと考えるのが妥当だとしています。素人のわたしとしては、あったと思いたいですね。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。
一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、西軍の総大将としました。そして、家康が亡き秀吉の遺命に背いたとする13ヶ条を箇条書きにした「内府ちがひの条々」が、豊臣三奉行連名の添え書きをもって全国の大名に発給されました。劇中、輝元たちが淀殿に献じていたあれですね。これは、実質上、家康弾劾文であり、宣戦布告の意味を持っていました。
家康が上杉討伐のため東国に向かったことによって、大坂はガラ空きとなり、その隙をついて三成が挙兵。そして関が原の合戦へと繋がっていくわけですが、この一連の流れは、三成と直江兼続が事前に密謀を交わし、家康を東西から挟み撃ちにする企てだったという説があります。反家康を表明している二人の挙兵があまりにも出来すぎなタイミングで行われていることや、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があることなどから、この説を推す歴史家の方も少なくありません。一方で、二人の共謀説に否定的な意見も多く、その理由としては、当時、上杉家は新領国に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても、大戦を挑むなんてあり得ないというもの。現在では、こちらの説のほうが有力だそうです。どちらが真実かはわかりませんが、密約があったとする方が、ドラマチックではありますよね。
ただ、その更に上手だったのが家康で、三成の挙兵を誘うため、あえて大坂を空にしたとする説。つまりは、三成と兼続の仕組んだ罠も、すべて家康が描いたシナリオだったという見方です。晩年の権謀術数に長けた家康なら、それも考えられなくもないかもしれません。しかし、当時の状勢で言えば、まだ西軍(三成方)の方に分があった段階で、家康にそんな余裕をかますゆとりはなかったようにも思えます。結果を知っている後世の私たちは、歴史上の出来事をひとつの物語として繋ぎあわせて、そこに関連性を求めて理由付けをしたくなりますが、実際には、それぞれがそれぞれに個々の保身や利益のために動いた結果が、歴史を作っているものなんじゃないかと思います。すべては偶然が重なって生まれたものなんじゃないかと。
いずれにせよ、いよいよ物語は関が原・・・と言いたいところですが、予告編を見る限り、次回は上田合戦と伏見城の戦いまでかな。
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by sakanoueno-kumo | 2023-10-30 18:40 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)