近江美濃境目で要塞化された寺・弥高寺 その1 <本堂跡~大門跡>
上平寺城から谷を隔てた西側に、かつて城郭なみに要塞化された弥高寺がありました。
ここも、京極氏、浅井氏に関係の深い場所です。

写真は本堂跡。
最も広い削平地で、東西68m×南北59mあります。

近江と美濃の国境にそびえる標高1377mの伊吹山は古代から山岳修験の霊地でした。
9世紀、伊吹山の中腹には、伊吹山寺と呼ばれる定額寺院(朝廷が認めた私院)があったと、『日本三代実録』に記されています。
伊吹山寺は、のちに弥高寺、大平寺、長尾寺、観音寺の伊吹四ヶ寺に分かれました。
弥高寺はその中で最大の規模を有していたようです。
また、史料によると、南北朝時代には伊吹山寺が城要塞化されていたことがわかっています。

明応4年(1495年)に京極政高が弥高寺から出兵し、翌年には京極高清が弥高寺に陣所を設けていたとの記録が残っており、京極氏が城郭として利用していたことがわかります。
その高清によって築かれたとされる上平寺城は、元亀元年(1570年)の織田信長侵攻まで砦として使われていましたが、弥高寺はそれ以前に城郭としての役目は放棄されていた可能性もあるようです。

主郭・・・じゃなかった本堂跡は土塁で囲われています。

記念撮影。

本堂跡からの眺望
東に美濃国、西に近江国が一望できます。
ここを境目の城として重要視した理由が、眺望を見ればよくわかります。

こっちが美濃国

こっちが近江国

本堂跡南の切通し虎口。
城跡じゃないから「虎口」とは言わないのかな?

切通しを南側から。

その横の削平地に設置された説明板。

ここらで縄張り図を載せます。
引用・加筆:『近畿の城郭Ⅲ』
発行所:戎光祥出版
城跡じゃないから縄張り図と言っていいのだろうか。
寺領図?
本堂跡を頂点として、扇状に南へ広がっています。

通称「弥高百坊」と呼ばれたそうですが、その言葉通り、測量調査では周辺も含めて100前後の坊院跡が確認されているそうです。
あいにく天気は雨で霞んでいますが、中央の参道の左右に幾重にも坊院跡が連なっているのがわかるでしょうか?

そして、ここが弥高寺の見どころのひとつ、大門跡。
左右の坊院跡を見ながら参道をまっすぐ南下したところにある門跡です。
城跡でいえば、大手門跡といえるでしょうか。

構造は桝形虎口。
この造りはどう見ても城郭そのものですね。

導線には石積みの痕跡が見られます。
弥高寺、上平寺城を通して石積みの痕跡があるのはここだけです。

土塁もっこもこ!

桝形土塁上にたたずむ城友さん。

土塁上から見た桝形虎口。
虎口だけでずいぶん時間を費やししまいました。
つづきは「その2」で。
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by sakanoueno-kumo | 2024-01-17 18:16 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)